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銀河鉄道の起こり2

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月に並ぶ

1925年(大正14年)に入り、正月の冬休みに異途への出発と称した冬の三陸の旅に出た賢治が家に戻り森佐一に手紙を書きます。
「・・・前に私の自費で出した「春と修羅」も、亦それからあと只今まで書き付けてあるものも、これらはみんな到底詩ではありません。私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の仕度に、正統な勉強の許されない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません。」


 「われわれの感ずるそのほかの空間といふやうなことについてどうもおかしな感じ」、 「或る心理学的な仕事の仕度に」
 この部分を読むと,賢治は一体何を考えていたのだろうと思います。

もう一度書きます。
「われわれの感ずるそのほかの空間といふやうなことについてどうもおかしな感じ」
「或る心理学的な仕事の仕度に」

「銀河鉄道の夜」の終わりにいよいよ不思議な描写が出てきます。カンパネルラが突然消えた場面です。
おまへはさっき考へたやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがいゝ。そこでばかりおまへはほんたうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ。」「あゝ、ぼくはきっとさうします。ぼくはどうしてそれをもとめたらいゝでせう。」「あゝわたくしもそれをもとめてゐる。おまへはおまへの切符をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強しなけぁいけない。おまへは化学をならったらう。水は酸素と水素からできてゐるといふことを知ってゐる。いまはだれだってそれを疑やしない。実験して見るとほんたうにさうなんだから。けれども昔はそれを水銀と塩でできてゐると云ったり、水銀と硫黄でできてゐると云ったりいろいろ議論したのだ。みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう、けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。それからぼくたちの心がいゝとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつかないだらう。けれどももしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考えとうその考えを分けてしまへばその実験の方法さえへまればもう信仰も化学と同じやになる。けれども、ね、ちょっとこの本をごらん、いいかい、これは地理と歴史の辞典だよ。この本のこの頁はね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。よくごらん紀元前二千二百年のことでないよ、紀元前二千二百年のころにみんなが考へてゐた地理と歴史といふものが書いてある。だからこの頁一つが一冊の地歴の本にあたるんだ。いゝかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年ころにはたいてい本統だ。さがすと証拠もぞくぞく出てゐる。けれどもそれが少しどうかなと斯う考へだしてごらん、そら、それは次の頁だよ。紀元前一千年だいぶ、地理も歴史も変ってるだらう。このときは斯うなのだ。変な顔をしてはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだって考だって天の川だって汽車だってたゝさう感じてゐるのなんだから
賢治は一体何を言おうとしているのでしょうか。


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この考えは賢治独特の考え方です。
賢治はよく浴びる人だと言われます。雨でも、光でも、雪でも霧でも何でも浴び続けるのです。そしてまるで断片が明滅するように身体に刻み込まれて堆積していくのです。彼は時間は降り積もり、堆積すると言っているようです。この考え方は時間は時間軸というラインがあって連続して遡行できるようなものではなく,堆積して断続していると考えているようです。だからその堆積を表現する本の体裁が適切な表現となるのです。本は時間を頁に刻んで堆積させる考え方で成立しています。だから「この頁一つが一冊の地歴の本にあたるんだ。いゝかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年ころにはたいてい本統だ。さがすと証拠もぞくぞく出てゐる。けれどもそれが少しどうかなと斯う考へだしてごらん、そら、それは次の頁だよ。紀元前一千年だいぶ、地理も歴史も変ってるだらう。このときは斯うなのだ。」という表現になるのではないでしょうか。


「銀河鉄道の夜」の「七、北十字とプリオシン海岸」でバタグルミを掘り出すときの描写です。
いや、証明するに要るんだ。 ぼくらからみると、ここ が は 厚い立派な地層で、百二十万年ぐらい前にできたといふ証拠もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水やがらんとした空かに見えやしないかといふことなのだ。
この「百二十万年ぐらい前にできたといふ証拠もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水やがらんとした空かに見えやしないかといふことなのだ。」というくだりは何を言っているのでしょうか。
どうもこのように証拠もそろうのだけれど他から見ると「こんな地層」に見えているのか「風か水やがらんとした空かに見えやしないか」という疑いをもっているのです。この考えが森佐一とこの年の暮れに岩波茂雄に送った手紙の「われわれの感ずるそのほかの空間といふやうなことについてどうもおかしな感じ」に対応していると思われます。そして「春と修羅」ではできなかった「私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の仕度」で解決の糸口を探そうとしているわけです。「銀河鉄道の夜」ではそうした賢治の中で永遠に繰り返されているテーマに物語としての価値を与えようとしていると考えられます。

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賢治の中で永遠に繰り返されているリフレインとは何なのでしょうか。
「なぜ通信が叶わないのか」ということになります。
他の次元との交信がなぜ叶わないのかということになります。死んだ妹トシとの通信はできないのかということです。ちがった空間とはあの世のことです。けっして一人を祈ってはいけないならば実験して証拠を残せないかということです。

つづく

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