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露頭にて 賢治の認識論

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露頭にて

1925年(大正14)の正月は厳冬の北三陸の旅から始まりました。賢治29歳になる年でした。
この三陸の旅から戻ってから森佐一に『春と修羅』において「歴史や宗教の位置を全く変換しようと」したり,2月には岩波書店の岩波茂雄に次のように手紙を送ります。
六七年前から歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふようなことについてどうもおかしな感じやうがしてたまりませんでした。
と書いています。実に不思議な言葉です。どんな違和感を抱いていたというのでしょうか。
私たちが感じているこの空間の「ほかの空間といふようなことについてどうもおかしな感じやうがしてたまりませんでした」というのです。それを科学的に「厳密に事実のとほりに記録したもの」が『春と修羅』だったと言うのです。

ここでは手紙の前の方に注目していきたいと思います。
つまり「六七年前から歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふようなことについてどうもおかしな感じやうがしてたまりませんでした。」と言う「六七年前から」という言葉です。一体「六七年前」に何があったと言うのでしょうか。何があって、空間というものの感じ方の変化に至ったのでしょうか。

そこで私は「六七年前」という大正7、8年の書簡を読み直してみました。賢治22、23歳前後の時です。この時期賢治は卒業、徴兵検査、独立という年に当たる時です。6月に岩手山に登ろうとして迷ったり「秋田街道」のような幻想的な作品が生まれ始める時期にも当たっています。この年は10月にも岩手山に登っています。言わば山登りにはまっていた時期にも当たります。これらの経験を経ながら賢治は父政次郎に次のように書いています。
戦争とか病気とか学校も家も山も雪もみな均しき一心の現象に御座候。その戦争に行きて人を殺すといふ事も殺す者も殺される者も皆均しく法性に御座候。・・・先日も屠殺場に参りて見申し候。牛が頭を割られ、咽喉を切られて苦しみ候へども、この牛は元来少しも悩み無く喜び無く又輝き又消え全く不思議なる様の事感じ申し候。

この下線部の「輝き又消え全く不思議なる様の事感じ」に注目したいのです。この場合「明滅しているのは命」です。


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オリオン昇る頃

この牛の命の輝きと死によって消えるという明滅する生命。
『銀河鉄道の夜』の「大きな一冊の本を持っている黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の瘠せた大人」がはジョバンニに見せた手品のような部分です。
そのひとは指を一本あげてしづかにそれをおろしました。するとジョバンニは自分といふものがじぶんの考といへものが、汽車やその学者や天の川やみんないっしょにぽかっと光ってしぃんとなくなってぽかっとともってまたなくなってそしてその一つがぽかっとともるとあらゆる広い世界ががらんとひらけあらゆる歴史がそなわりすっと消えるともうがらんとしたたゞもうそれっきりになってしまふのを見ました。だんだんそれが早くなってまもなくすっかりもとのとほりになりました。
賢治は見えたり見えなくなったりする明滅する現象を生命の生死にも当てはめています。そしてそれを「法性」と言っています。「法性」とは事の自然の成り行きのことを意味しています。生きるも死ぬも自然のことである。この世の理(ことわり)であると達観しているような言い方です。

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ライチョウは陽を望む

まとめます。
私たちは今一枚目の写真のような崖の下にいると思ってください。時間が全く目に見えるような地層となって眼前にあります。時間が目に見えるようになっている地層というものが鍵です。時間が一目瞭然に見えているということは、それぞれの途方もない程離れた時代を同視点で眺めることができるということです。賢治の言葉による記録は地層の前にいる人間のように時間を無化することで紀元前二千二百年の地理と歴史も紀元前一千年も同時に同価値で見えてしまうのです。
賢治の認識論はこのような地層が露出した露頭での観察者の視点を持っていたと言うことができるのではないでしょうか。この世にある生老病死という迷いはすべてがこの世の自然な「理(ことわり)」の通りなのだと昇華させ、納得させることでこの世の空間の有り様たった一つの薄い地層でしかないと読み換えようとしていのではないでしょうか。そうすると賢治の視点は膨大な堆積された時間という地層空間をさらに客観的に見ている観察者の視点を持ち得たと言えます。


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