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マイ アンソロジー山里の夜

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山里の夜 5/29撮影

ここは岩手県一関市の山合い。栗駒山へ続く道です。
昔山伏たちの修行の場となっていた山を背景に撮りました。
電気も何ない昔の夜は暗く星はきれいに見えたでしょう。
キツネが出てきて私のことを牽制して何回も鳴きました。あとはフクロウの声が響くばかりです。 
そんな静かな夜を出そうとシャッターを切りました。


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マイ アンソロジー星の思い出

夕方326 061-2s
「春色の・・・」
2012/3/26夕方撮影 画面上からスバル,金星,月齢4の月,木星と四つが縦に並んだ夜でした


昨日自分の過去の写真を見ていた時,ふと「マイ アンソロジー」をつくってみたらおもしろいのではと思いました。
自分の思い出を軸にして写真群を再編集してみるのです。
あの年の,あの夜の,あの星の思い出
夜の暗がりに立って自分が正直に宇宙と向き合っていたこと
真剣に向き合って見つめていたあの時のあの自分を忘れないためにも

ここにただのリーフレットですが世界に一冊だけのマイアンソロジーを贈ります


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夜の写真闇の文学

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月が昇るまでの間

どうしてまた私が夜の写真をもう十年以上も撮り続けていられたのかと思う。
暗い夜に山に登り,暗闇の道を辿り,その景色を撮り続けてきました。このように続けることができたのはそれなりの訳があったのでしょう。一言で言えばですが,「夜の見えない世界を視覚的な写真で表現する試みにおもしろさを感じている」からかもしれません。星の光も,音も,匂いも,風も,夜の暗がりと静けさの中に溶け合っている。そんな写真が撮りたいという一心で続けて来たんだと思います。まさに詩や文学作品と肩を並べる夜の写真への試みです。

この頃宮沢賢治の詩の言葉とは何か。他の詩人の作品とどう違うのか。科学的に記述したと自負しているメンタルスケッチ「春と修羅」はどこが科学的なのかという疑問にさいなまれています。その答えを得るにはもう一度自分の立ち位置を洗い直す所から始めないといけないと感じるようになりました。

そこで私たちが風景を見ているときに何に反応しながら見ているのか,観察によって風景(対象)を的確に描写する技術がどう関わり合っているのかをどうしても知りたくなりました。
このような大きな問題にいつかはぶち当たるとは思っていましたが,準備できる分だけメモとして残しておこうと思います。
そこで第一回目は「夜の写真闇の文学」と題して梶井基次郎,串田孫一から始めていきます。尚どうして梶井基次郎で,串田孫一なのかは過去の記事に依っていますので,お読みいただくと分かりやすいかもしれません。

闇の紀行文-串田孫一のことば その7


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月夜の棚田

風景の認識論を語る上でその最たる作家が梶井基次郎だと思う。まずは彼の語り口に耳を傾けよう。青空から湧き上がる雲の様子を見ての「闇への書」からの文です。
次へ次へ出て來る雲は上層氣流に運ばれながら、そして自ら徐(おもむ)ろに旋回しながら、私の頭の上を流れて行つた。緩い渦動に絶えず形を變へながら、青空のなかへ、卷きあがつてゆく縁を消しながら。
――それはちやうど意識の持續を見てゐるやうだつた。それを追ひつ迎へつしてゐるうちに私はある不思議な現象を發見した。それはそれらの輕い雲の現はれて來る來方(きかた)だつた。それは山と空とが噛み合つてゐる線を直ちに視界にはいつて來るのではなかつた。彼等の現はれるのはその線からかなり距つたところからで、恰度燒きつけた寫眞を藥のはいつたバツトへ投げ込んで影像があらはれて來るやうな工合に出て來るのだつた。私はそれが不思議でならなかつた。
空は濃い菫色をしてゐた。此の季節のこの色は秋のやうに透き通つてはゐない。私の想像はその色が暗示する測り知られない深みへ深みへのぼつて行つた。そのとたん私は心に鈍い衝撃をうけた。さきの疑惑が破れ、ある啓示が私を通り拔けたのを感じた。
闇だ! 闇だ! この光りに横溢した空間はまやかしだ。
青い空の虚空から突然白く沸き立っていく雲の生まれ方が問題なのです。それが写真を現像してやがて輪郭が浮き立ってくるような現れ方をしていると言うのです。ですから青空に青く見えている色はまやかしで,青の奥の深い部分では次々と白い雲が生成されている。その生成する姿は青空の青に隠されて見えないのです。隠されているからこそ闇があるのです。梶井独特の発見です。
また同書の続きではこうした文も出て来ます。

「太陽は空にたゆまない飛翔を續けてゐる。自然はその直射を身體一ぱいにうけてゐる。その外界のありさまが遠い祭りのやうに思ひなされる。」

太陽の激しすぎるその直射光を受けていると,感覚が徐々に遠ざかっていって観察している自然がまるで「遠い祭り」のように思えてくると言うのです。この感覚もよくあります。この遠ざかっている景色は次に

「音といふものは、それが遠くなり杳(はる)かになると共に、カスタネツトの音も車の轣轆(れきろく)も、人の話聲も、なにもかもが音色を同じくしてゆく。其處では健全な聽覺でも錯覺にひきこまれ、遠近法を失つてしまふ。そしてあたりに氣がついて見れば、其處が既に今まで音の背景としてゐた靜けさといふ渺々とした海だといふことに氣がつく。」

遠くなった景色が「遠い祭り」に感じると音が聞こえてきます。その音も遠ざかっていくと同じ音色に聞こえて来る聴覚の錯覚に陥ると言います。また自然界で起こる音と見えている景色との関係を次のように言います。
その音は通常音が人に與へる物的證據を可見的な風景のなかに持つてゐないからかと。即ちその音を補足する水の運動が見えないからかと。すると私はその樋が目にはいらなかつた前の、音のもとを探してゐるときの深祕に逆戻りしてゐるのだ。しかし今はその階段よりは一歩進んでゐる。その音を補足する視覺的な運動のかはりに樋といふもので補足が出來てゐる。そしてまだ以前のやうな神祕が殘つてゐるとすればそれは樋が未だ視的證據ではないからだ。それは知的證據にしか過ぎない。すると知識と視覺との間にはあんなにも美しい神祕が存在するのか。
これは水の流れる音だけが聞こえていて,まだ景色の中に水の流れが認められていない不安定な理解の時にどんなことが思考の中で起きているのかが語られます。私たちは見えているものや聞こえて来る音を景色の中に証拠を見つけながら理解していく,人間の風景の認識の仕方が語られます。

これこそ宮沢賢治が「春と修羅」の中で展開していった風景の認識論の枠につながっていくと思います。そしてそれが自然から受けた賢治という感覚器官がどう反応していくかをそのまま,まさに生のまま,純粋経験として綴っていったものが「春と修羅」の科学性ということになります。梶井基次郎が「闇への書」で構築しようとした風景の認識論は実に大切なことです。さらにこれらの手法が極限まで駆使されるのが夜を舞台とした場合です。

この話は次に続きます。


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