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ブナ林で春の音を聴く

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4/29のブナ林

今日はまず4/29のブナ林の様子を見てもらいました
そして次が9日経った昨日の様子です

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5/10のブナ林

爆発的に展葉が始まっていました
すごい勢いです。林床にはまだ雪が残っています。ブナの根回り穴だけが開いていて,地表は出ていません。その雪の上に木漏れ日が落ちて白くまだらな模様をつくり出しています。もう数日で林の中はブナの葉で薄暗くなっていくでしょう。従って林床に咲く春のはかなき花(スプリング・エフェメラルダ)たちは一時間でも早く雪が解けてほしいし,花を咲かせたい。今は一時(いっとき)を争う時期なのです。

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毎年ですが,ブナの柔らかい緑に会うことを楽しみにしています。
どうして自然界はこんな色をもっているのだろう。たった一日違うだけで色が違うのです。莫大な葉をつけるブナは生き続けるためにすべてのエネルギーを春に注ぎ込みます。聴診器をブナの樹幹に当てて見ます。ゴーッという音がしています。ブナが水を吸い上げているのか,またはブナが周囲の音を感じ取っているのかその生々しい音に生きていることの深さを感ぜずにはいられません。何も言わない植物と思われるかもしれません。しかし寡黙であることがどんなに大切かも彼らから教わります。表面的な感情から出る言葉や行動の浅はかさというものをいつも植物は動物である私に教えてくれます。

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湿原開き

毎年来る湿原も9日前は猫の額ほどの大きさでしかありませんでした。しかし,昨日行くと一気に賑わいを見せているように思えました。花々の賑やかで嬉しそうな声が聞こえてくるようです。沢の水の流れは確かに勢いを増しています。けっして何かをよろこばせようとしている音楽ではない音の連なりが絶えず林の中を流れています。ポリフォニックというのでしょうか。多声的なのです。その音一つ一つが同時に多発生的に湧き上がってそして断続的に消えます。それらはリズムのように聞こえることもあれば旋律のように聞こえることもあります。しかしすぐに自分に引き寄せて理解しようとしてはいけません。すぐ何かに当てはめて考えれば失われてしまうものもあると思わなければいけません。林の中の波長に同化しなくてはいけません。「春と修羅」を書いた宮沢賢治がどうして春という季節を選んだのか,空気は無ではなく充溢しているエネルギーと換算してみましょう。静止して動かない物質も質量というエネルギーをもっているならば静止もまた運動です。賢治は堅く動かない蕾の中にあるエネルギーも大きく葉が揺れて実際に見えているエネルギーも同じと考えたのかもしれません。春の大気は無ではなくエーテルというエネルギー物質なのです。つまりこの世の全てはエネルギーの変態現象と見えていたのかもしれません。この世に現われる姿こそ違え,存在しているものは連関がある。賢治はそう考えて物質と生命という二元論を易々と超えていったのではないでしょうか。ヘッケルの一元論に彼は彼なりの「春と修羅」で答えたのでした。

どうしてかもう3時間もこの辺りをうろうろしています。
ミズバショウの咲く花の向きはいろいろですが,何か法則性があるんだろうか。あそこのイワカガミはもう咲いたのかしら。コバイケイソウの葉の対称性。このシカの糞は新しいな。どのあたりを食べたのかしら。たまに林の奥で物音が聞こえる。沢の水音が通奏低音となり風に乗って雪から跳ね上がる枝の立てる音や展葉したばかりの葉を風がくすぐる音。日が翳ると一気に薄暗くなる世界。こんな世界だと今夜の月の光も美しいでしょう。


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