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夏至に向かう

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夏至に向かう 昨晩6/20撮影 一枚撮り

河原に座って川のせせらぎとカジカガエルの声を聞いている
出始めのホタルは初めてこの世に生まれ,この世を確かめるようにそろりそろりと飛んでいる
耳の指向性をずらしていく。
と,やがて川のせせらぎとカジカガエルの声が沈黙の下に沈み込む。そうやってこの世のすべての音を消し去ってみる。
ゆらりゆらりと飛ぶホタルの光跡に集中する。そうするとどうだろう。沈み込んだ音が視覚に流れ込むようになり,視覚が増幅されたように見たものが強く焼き付くように見えるようになる。意図的にこんな感じ方の試行錯誤をしているとこの世にはホタルと自分しかいなくなる。

突然身体の周りが薄明るく感じる。次の瞬間,ホタルが顔をかすめるように飛んでいく。
今晩はベガや木星がやたらと光る。
もう三日も経つというのに全くその場所から動かずに今夜も光っているホタルがいる。メスなのだと思う。彼女は空間の広がりというものは必要ないのだろう。もともと待つという行為は空間がいらない者が行う積極的な行為なのだと知らされる。待てない性格の私からすれば確かにそう言えるのかもしれない。確証も持てないことに一心に打ち込める彼女の強さが羨ましくも感じられる。確証が持てないからこそ最果てまで探し続ける空間を切り拓き続けるオスと空間を必要としないメス。待っている人の所へ辿り着くことか,来ることを信じてひたすら待っているのか。そのどちらの生き方も相手の特徴をよく知って居ての行動なのだ。

こう説明してみたところでふといつも思うことがある。お前はいつも都合の良い方へ話を向かわせる言い方をしていると・・・。ホタルだったら子孫を残すためにどうしているのかを念頭におけば説得力ある言い方になる。そもそも言葉にすることは相手に分かってもらうためにすることなのだと。
本当にそうだろうか。相手に分かってもらうために,すべて言葉で再―表現しなくては理解はもたらされないものなのだろうか。言葉をそんな相手に理解してもらえるだけの使用価値だけに使っていて幸せと感じるのだろうか。自分の言葉による表現は自分の豊かさに必要な物であって相手のために必要な物ではないのではないか。

つまり今,目の前を飛んでいるホタルは皆に理解してもらうために光っているのではなく,少なくとも自分の豊かな表現がしたくて光っているのだ。自分の光り方が生き方なのだ。だから飛び方も光り方を工夫したりしているのだ。
どうしてそんなに「通じなさ」に悩むのか。

こんなことを考えていたら目の前に水に落ちてもがいているホタルがいた。通りかかったホタルが一様にその溺れているホタルに近寄っていった。助けてやるホタルはいなかった。しかし最後には溺れていたそのホタルは自力で岸の石に這い上った。ホタルは生存競争に自分が勝つためだけに生きているのではないんだと感じた。

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こんなことを考えていたら月齢18の月が山の端からぽっかりと顔を出していた。



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