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モネラ

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月の出

「水に入りやがった。」
日暮れにならんとしているのに戻らぬ姉弟のことを聞いた大夫は怒りのままにどなり散らしすぐ追っ手を送り探させた。
そして沼のほとりにそろえてあった安寿のわら靴をみつけた。

「これが今生(こんじょう)の別れ」
彼女はそう心の中で呟いた。

弟の厨子王が山道を走って下ってゆく。後ろ姿がどんどん小さくなっていく。
そしてやがてかき消されるように彼方に見えなくなった。
16歳になったばかりのまだ幼さが残る安寿だが,姉としての彼女の目に芯のある光が見える。これでいいのだ。彼女は先程弟が下りていった山道をしっかりとした足取りで下りていって,坂のたもとにある沼にやってきた。
沼は木々の中に静まりかえっていた。
彼女はふと着物の懐に手を入れた。母親からもらったお守りをさわろうとしたのだった。しかしまさぐったその指はあきらめた。先程弟にそのお守りは渡したのだった。今走って逃げている弟の持っている地蔵菩薩に手を合わせて祈った。
「弟をお助け下さい。私の命に代えても。わたくしは大丈夫です。」
彼女は小さなわら靴を脱いで沼のほとりにそろえた。そして沼に身を投げた。


波はなく凪になっていた。
8歳の安徳天皇は祖母の時子にかき抱かれながらもはやと感じました。
「どうするのじゃ」少しおびえた声で幼子は聞きました。

「波の下には,それは美しい都がございます。」

幼子の体は祖母の腕の中でゆっくりと海の底に沈んでいった。


天鼓は天から下りてきた不思議な鼓(つつみ)とともに育ちました。
天鼓の打つ鼓の音は不思議な美しさをもっていました。その鼓の音を聞いた者はいっとき目の前に極楽浄土が現れる気持ちになりました。病に嘆く者はその鼓の音で病が癒えました。

時の皇帝はその話を聞き,その鼓を召し出すように言いました。しかし天鼓はその命に背き,捕らえられ呂水に沈められ死んでしまいました。残った鼓は誰がたたいても音を発しませんでした。ただ天鼓の父がたたくと妙なる音が鳴りました。皇帝はその音を聞き,天鼓を殺めたことを大変に悔いて呂水にやってきて管弦講の供養しました。すると水の中から天鼓が現れ出で,管弦に合わせて自ら鼓を打ちました。
ほのぼのと夜も明ける頃,管弦もやむと同時に天鼓の妙なる鼓の音もいつしか消えていました。
天鼓は皇帝に感謝し水の底に帰って行きました。


ホタルの撮影で毎夜川縁にいる私はせせらぎの音を聞きながら水にまつわる話を思い出していました。
一つ目は安寿と厨子王,二つ目は平家物語の安徳天皇の入水,最後は「天鼓」という話でした。この他にも銀河鉄道の夜のカンパネルラなど,美しい魂はいつも水のそばにあることを感じさせます。私も地区の石碑調査を大体終え,毎日供養塔や墓碑銘を読みながら亡くなった方々の魂は今どこにいるんだろうと思いました。

それでやっぱり思い出すのが宮沢賢治です。あの世にいる亡くなった妹と再会するために煩悶を繰り返しながら様々なことを試みます。その最たるものが樺太の栄浜まで行き,なんとか亡くなった妹と交信しようとしたことはオホーツク挽歌群を読むと切々と伝わってきます。そして詩の中でヘッケル博士に《ヘッケル博士!/わたくしがそのありがたい証明の/任にあたってもよろしうございます》と高らかに宣言し,最後に彼は次のように書いてオホーツク挽歌群を締めくくりました。

どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ    「噴火湾(ノクターン)」

結論はこうでした。
「なぜ通信がゆるされないのか」

これは突飛な行いだったのでしょうか。
いいえ,明治29年生まれの賢治が恐山に行って口寄せに頼んで交信することもできたはずです。今でも風の電話で話をしたい人もいっぱいいます。

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月昇る

わら半紙に鉛筆で書かれたグスコーブドリの伝記の創作メモに不思議な言葉が出て来ます。
「モネラ」

「モネラ」これはヘッケルの「生命の不思議」の中の言葉です。無生物から生物は生まれたとする生命一元論を支える言葉です。
メモには「三 ノルデは書記になろうと思ってモネラの町へ出かけて行った。」と書かれています。賢治はヘッケルの「生命の不思議」という本を原書で持っていたといいますから読んでいたと考えられます。生物がどのように誕生したのかについてヘッケルは無生物がある時生命体に飛躍することをモネラという中間項を置くことで説明しようとしました。従って自分という生物と死んだ妹という無生物が通信できれば生物と無生物との間に連続性ができ,そのつながりを可能にするモネラそのものの存在も証明できるというわけです。それが《ヘッケル博士!/わたくしがそのありがたい証明の/任にあたってもよろしうございます》という意味なのです。

近代化の枠を持った賢治が科学的にあの世の妹との通信は可能かという実験を行ったのでした。そしてその実験はうまくはいきませんでした。賢治は科学と実験という形で妹との通信を成功させ,普遍化した事実にしようとしました。むしろ賢治が身もだえしながら絞り出した詩の言葉の方が今でもわれわれの心を打ち続けます。

賢治が行った死んだ者と通信するという壮大な実験は逆説的に私には教訓となって心に刻まれました。
自分の煩悶を解決するすべは科学的な実験や叙述に乗らないものなのだ。次元を異にするものだ。同じように苦しみの答えを科学や本や他のものに求めても納得するものは見つからないということを教えてくれます。他力では苦しみはなくならない。後に彼のこの苦しみとの戦いは自分自身の解決の道を生む文脈をつくりだすこととなりました。「けっして一人を祈ってはいけない」という言葉です。または「薤露青(かいろせい)」最後のあの語りかけです。
  ……あゝ いとしくおもふものが
       そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
       なんといふいゝことだらう……

ここには喪失の痛手から苦しみもがきながら新しくつくりだされた賢治の思想の極限が見えています。


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