FC2ブログ

水面をなでる風

DSC_2993-2gss.jpg
水面をなでる風 今日12/30撮影

好きでやっている写真ですが,ふと,気付くとろくでもないことも考えたりしています。
実はこのように写真撮ったり,アップしていますが,知らないうちに他の人様を不快にさせたりしていないだろうか,と思ってしまうことがあります。とにかく自分が何でも無自覚にいることが問題で,別に罰当たりなことをしているわけでもないからいいじゃないかと思うんですが,それは身勝手な自分の解釈で,罰当たりな自分にも気付いておらず,挙げ句の果てには自分に何らかの罰が当たっているのに,それにさえ無自覚でいる浅ましさは不思議に自分には納得できるような気もするのです。あまりにも美しい今朝の日の出の景色を見て,確かに心躍り,そして勿論写真も撮りました。しかしぼんやりと自分の写真は罰当たりな写真ではないだろうかと思ったりしてしまいます。自然の美しさに対しての失礼さと言うか,つまり美しい朝をうまく美しく撮れない自分の写真の未熟さのような罰当たりにも感じるのです。

このような妄想を続けていくと,思春期の頃に読んだ太宰治の短編「家庭の幸福」などを思い出します。「家庭の幸福」のラストは,あの有名な言葉,「曰く、家庭の幸福は諸悪の本(もと)。」でまとめられます。青空文庫でたった今また読んでみましたが,なんか人(自分)の至らなさが他人を不幸にしているのではないかという畏れがやっぱり自分にもあると感じてしまうのです。そうすると具体的な法律上は問題ないにせよ,自分の存在で他の人様に多大な影響を与えてしまっていること自体が「未必の故意」の概念に当たるのではないか。そこで「未必の故意」を調べてみると・・・。
「未必の故意」とは、自分の行為によって違法状態に至る可能性を認識しており、結果的に犯罪行為が発生してもかまわないという心理状態を表す法律用語です。
例えば、「横断歩道に歩行者が大勢いる交差点に、信号無視をして車で突入すれば、誰かが死ぬ可能性が高いが、誰かが死んでもかまわない」と考えて突入した場合「未必の故意」になります。
まあ,この場合「誰かが死んでもかまわない」というあからさまに強い表現になっていますが,もっともっと微弱な臆病な考え方で「申し訳なさ」と言いかえてもいいです。心理的な「未必の故意」とでも言うようなことが気になるのです。ちなみに未必の故意の説明と共に「認識ある過失」というのもあったので引用してみます。
「認識ある過失」、自分の行為によって違法状態に至る可能性を認識しながら、その発生を避けられるものと信じて行為したが、結果的に違法状態を発生させた状態をいいます。
例えば、「横断歩道に歩行者がいない交差点に、信号無視をして車で突入すれば、誰かが飛び出してきた場合死ぬ可能性はあるが、過去には一度も飛び出してきたことはないので大丈夫だろう」と考え、結果的に事故を発生させた場合「認識ある過失」になります。
非常に区別が微妙です。
ひねくり回しましたが,言いたいことは他人様に負の影響を及ぼしてはいないかということが心配なのです。はい。

DSC_2911-2gs.jpg
朝の色 今日12/30撮影

人間,状況的に証拠がそろうと意図していなくてもそういう意図があったのではないかと思われてしまうことは自然のことかもしれません。例えばクリスティの「うぐいす館」です。夫の机の奥から夫が以前に住んでいた町で起きた殺人事件の新聞記事の切り抜きが出てくる。へんな場所に工具が隠されていることを発見する。その工具は殺人事件に使われた凶器かもしれない。この頃,夫はよく家を空ける。何かを準備しているのでは・・・。妻はそれらの状況から次の標的は自分なのだと信じ,ノイローゼになります。こういったただの事実の羅列があらぬ状況への証拠となってしまう。そんな反転した解釈をつい人間はしてしまうものです。

DSC_3891-2gs.jpg
沈む三つ 内沼にて

あらぬことで疑われてしまう。意図しないところで犯人にされてしまう。まるでヒッチコックの映画を観るようなことも起きます。ヒッチコック映画は「巻き込まれ型」として有名ですが,状況が揃えば意図や心情は二の次になってくる事がこの頃よく起きています。報道の挙げ足取りです。言葉は人なりと言い,軽率な例え話をしたりするとその言葉だけがコピペされて大きく取り上げられるのです。浅い考え方は浅い短絡的な結末をねつ造してきます。

水面をなでる風は,波をつくりますが,わたしはこの頃,沼や川などは水深によって同じ風でも波の立ち方が違うのではないかと思っています。伊豆沼は浅いです。今日撮影した長沼は深いです。長沼の水面には同じ波でも美しい色が乗って,細かい波が揺れるようにゆっくりと立ち上がります。波は皆同じでしょうが,表面だけ見ても分からない現象もよく考えれば深い意味があるものだと思うのです。その点で写真も表面だけでは終わりたくないものです。


にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ
にほんブログ村

マイ アンソロジー「花の話」

焼石624 1173-2-2gs
サンカヨウ 栗駒山にて

伊豆沼・内沼サンクチュアリーセンター新田館で行っている写真展の作品をつくるために過去の写真を見ているときにふと上のサンカヨウの写真が眼に留まった。栗駒山のとある湿原の一番奥にこのサンカヨウが毎年,白いを咲かせたり,そのびらが透明なガラス細工のようになったり,実がラピスラズリの青から深い紫がかった青に変化することも知っている。
ある年,やっぱりこのサンカヨウの写真を撮っていると子どものような声を立てて食事をしている熊にニアミスしたこともあった。サンカヨウの実は甘いそうだが多分山ぶどうジュースのように落ち着きのある紫色になるのではないだろうか。甘かったら森の動物たちが食べそうだがどうだろう。

の写真は難しい。春先の根雪が割れた湿原に咲くミズバショウなどを撮り始めるとまったく歩が進まなくなる。一日その場所でああでもないこうでもないと気付くと日が傾きかけているということもある。

折口信夫の「の話」を読んで見る。すると昔の人のに寄せた思いが分かる。
錦木(ニシキギ)を門に樹てることがある。里の男が、懸想した女の家の門へ錦木ニシキギを切つて来て樹てるのである。美しい女の家の門には、村の若者によつて、沢山の錦木が樹てられる。どれが誰のか、判断はどうしてつけるのか訣らぬが、女が其中から、自分の気に入つた男の束を取り入れる。其は、女が承諾した事を示す。此は、平安朝の末頃、陸奥の結婚にはかう言ふ話があつた、と言ふ諸国噺の一つとして、語り伝へられて、歌枕になつたのであるが、よく考へて見ると、さう言ふ事でないのかも知れぬ。
此は恐らく、正月の門松の御竈木ミカマギと同じ物で、他人の家の外に、知らぬ間に、木を樹てに来るものではなかつたらうか。其樹を何故、錦木と言ふのであらうか。錦木と言ふ木なのか、或は其樹てた木を錦木と言うたのか、問題であるが、それは結婚の為ではなく、私は外から来るある人が、土産として、樹てゝ行つたことの、一つの説明なのだらうと思ふ。
好きな女の家の門にニシキギを置いていくという話が結婚のプロポーズとして陸奥の国では行われていたとすれば,それもまた興を誘うものですね。しかし,折口が言うように,好きな人のいる家の門に慕っている男がニシキギを立てていく感覚よりは,もっとニシキギを立てることで相手の家の幸せにつながるという「来ましたよ」という来訪の目印の方が厚かましくなくていいのかもしれません。

折口は続いて藤原広嗣の歌を引用します。
の一弁(ひとよ)の中(うち)に、百種(ももくさ)の言(こと)ぞ籠れる。おほろかにすな(万葉巻八)
は女に与へたものである。此はの枝につけて遣つたものであらう。
此花の一弁(ひとよ)の中(うち)は、百種の言(こと)保(も)ちかねて、折らえけらずや(万葉巻八)
此は返歌である。此二つの歌を見ても、花が一種の暗示の効果を持つて詠まれて居ることが訣る。こゝに意味があると思ふ。の花に絡んだ習慣がなかつたとしたら、此歌は出来なかつたはずである。其歌に暗示が含まれたのは、の花が暗示の意味を有して居たからである。
此意味を考へると、は暗示の為に重んぜられた。一年の生産の前触れとして重んぜられたのである。花が散ると、前兆が悪いものとして、の花でも早く散つてくれるのを迷惑とした。其心持ちが、段々変化して行つて、の花が散らない事を欲する努力になつて行くのである。桜の花の散るのが惜しまれたのは其為である。

隣町に樹齢がもう一千年以上という「山王の桜」という名桜がありますが,その桜を酷く扱った城主はことごとく滅び,悪政圧政に傾いたという伝説が残っています。城主が考えを改め,桜を大切に扱うようになると村も栄えたと言います。北条時頼の廻国伝説はつとに有名ですが,石碑にはやはり「山王の桜」を愛でていったと書かれています。ただ花を愛でるという酔狂なこととは別に花はその年を禍福を暗示するものでもあったはずです。花は人々の心を写しだすのです。

まとめます。最初は花のやすらふ事を祈ったのでしょう。それが蝗が出ると、人の体にも疫病が出ると言うので、それを退散させる為の群集舞踏になっていったのでしょう。そんな強い願いが込められて桜は眺められていたのです。

栗駒716 236-2gs
霞む山並 栗駒山


写真展に出す作品は「伊豆沼写真曼荼羅」と題して,多くの写真を組み合わせることにしました。出来映えは写真展で確かめて下さい。ありがとうございました。


にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ
にほんブログ村