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マイ アンソロジー「花の話」

焼石624 1173-2-2gs
サンカヨウ 栗駒山にて

伊豆沼・内沼サンクチュアリーセンター新田館で行っている写真展の作品をつくるために過去の写真を見ているときにふと上のサンカヨウの写真が眼に留まった。栗駒山のとある湿原の一番奥にこのサンカヨウが毎年,白いを咲かせたり,そのびらが透明なガラス細工のようになったり,実がラピスラズリの青から深い紫がかった青に変化することも知っている。
ある年,やっぱりこのサンカヨウの写真を撮っていると子どものような声を立てて食事をしている熊にニアミスしたこともあった。サンカヨウの実は甘いそうだが多分山ぶどうジュースのように落ち着きのある紫色になるのではないだろうか。甘かったら森の動物たちが食べそうだがどうだろう。

の写真は難しい。春先の根雪が割れた湿原に咲くミズバショウなどを撮り始めるとまったく歩が進まなくなる。一日その場所でああでもないこうでもないと気付くと日が傾きかけているということもある。

折口信夫の「の話」を読んで見る。すると昔の人のに寄せた思いが分かる。
錦木(ニシキギ)を門に樹てることがある。里の男が、懸想した女の家の門へ錦木ニシキギを切つて来て樹てるのである。美しい女の家の門には、村の若者によつて、沢山の錦木が樹てられる。どれが誰のか、判断はどうしてつけるのか訣らぬが、女が其中から、自分の気に入つた男の束を取り入れる。其は、女が承諾した事を示す。此は、平安朝の末頃、陸奥の結婚にはかう言ふ話があつた、と言ふ諸国噺の一つとして、語り伝へられて、歌枕になつたのであるが、よく考へて見ると、さう言ふ事でないのかも知れぬ。
此は恐らく、正月の門松の御竈木ミカマギと同じ物で、他人の家の外に、知らぬ間に、木を樹てに来るものではなかつたらうか。其樹を何故、錦木と言ふのであらうか。錦木と言ふ木なのか、或は其樹てた木を錦木と言うたのか、問題であるが、それは結婚の為ではなく、私は外から来るある人が、土産として、樹てゝ行つたことの、一つの説明なのだらうと思ふ。
好きな女の家の門にニシキギを置いていくという話が結婚のプロポーズとして陸奥の国では行われていたとすれば,それもまた興を誘うものですね。しかし,折口が言うように,好きな人のいる家の門に慕っている男がニシキギを立てていく感覚よりは,もっとニシキギを立てることで相手の家の幸せにつながるという「来ましたよ」という来訪の目印の方が厚かましくなくていいのかもしれません。

折口は続いて藤原広嗣の歌を引用します。
の一弁(ひとよ)の中(うち)に、百種(ももくさ)の言(こと)ぞ籠れる。おほろかにすな(万葉巻八)
は女に与へたものである。此はの枝につけて遣つたものであらう。
此花の一弁(ひとよ)の中(うち)は、百種の言(こと)保(も)ちかねて、折らえけらずや(万葉巻八)
此は返歌である。此二つの歌を見ても、花が一種の暗示の効果を持つて詠まれて居ることが訣る。こゝに意味があると思ふ。の花に絡んだ習慣がなかつたとしたら、此歌は出来なかつたはずである。其歌に暗示が含まれたのは、の花が暗示の意味を有して居たからである。
此意味を考へると、は暗示の為に重んぜられた。一年の生産の前触れとして重んぜられたのである。花が散ると、前兆が悪いものとして、の花でも早く散つてくれるのを迷惑とした。其心持ちが、段々変化して行つて、の花が散らない事を欲する努力になつて行くのである。桜の花の散るのが惜しまれたのは其為である。

隣町に樹齢がもう一千年以上という「山王の桜」という名桜がありますが,その桜を酷く扱った城主はことごとく滅び,悪政圧政に傾いたという伝説が残っています。城主が考えを改め,桜を大切に扱うようになると村も栄えたと言います。北条時頼の廻国伝説はつとに有名ですが,石碑にはやはり「山王の桜」を愛でていったと書かれています。ただ花を愛でるという酔狂なこととは別に花はその年を禍福を暗示するものでもあったはずです。花は人々の心を写しだすのです。

まとめます。最初は花のやすらふ事を祈ったのでしょう。それが蝗が出ると、人の体にも疫病が出ると言うので、それを退散させる為の群集舞踏になっていったのでしょう。そんな強い願いが込められて桜は眺められていたのです。

栗駒716 236-2gs
霞む山並 栗駒山


写真展に出す作品は「伊豆沼写真曼荼羅」と題して,多くの写真を組み合わせることにしました。出来映えは写真展で確かめて下さい。ありがとうございました。


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