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映り込む「浄夜」

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飛行機雲

「浄夜」 リヒャルト・デーメル

二人の人間が葉の落ちた寒々とした林苑を歩んでいる。
月は歩みをともにし、彼らは月に見入る。
月は高い樫の木の上にかかり、
一片の雲さえこの天の光を曇らさずにいる。
その光のなかに黒い枝が達している。
女の声が語る。

私は子供を宿しています。でもあなたの子供ではありません。
私は罪を背負ってあなたのお側を歩いています。
私はひどい過ちを犯してしまったのです。
もはや幸福があるとは思いませんでしたが
でもどうしても思いを絶てなかったのです、
生きる張り合い、母親の喜びと義務を。
それで思い切って身を委ねてしまったのです、
身震いしながらも、私は見知らぬ人に我が身を任せてしまい、
そんな自分を祝福さえしたのです。
それなのに、今になって、人生は復習したのです、
今になって私はあなたと、ああ、あなたと巡り会ったのです。

彼女はこわばった足取りで歩く。
彼女は空を見上げる。
月はともに歩む。
彼女の黒い眼差しは光のなかに溢れる。

男の声が語る。
きみの授かった子供を
きみの魂の重荷にしてはならない。
見たまえ、この天地万物がなんと澄んだ光を放っていることか。
万物が輝きに包まれている。
きみは僕とともに冷たい海の上を渡っていく、
だが特別な温かさがきらきら輝きながら、
きみから僕へ、僕からきみへと行き交う。
この温かみが見知らぬ子を浄めるだろう。
きみはその子を僕のため、僕の子として産んでおくれ。
きみはこの輝きを僕に運び、
きみは僕をも子供にしてしまったのだ。

彼は彼女の厚い腰に手を回し、
彼らの吐息は微風のなかで口づけをかわす。
二人の人間が明るく高い夜空のなかを歩いていく。


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遠い光

遠い昔に同人誌を出していた。その同人誌の題名が「浄夜」だった。買った黄色い表紙のドイツ現代詩というレクラム文庫でデーメルの詩を知った。そしてソニーから発売されていたブーレーズの「浄夜」を聴いた。そして改めて今「浄夜」を読んでみる。
月の光の下を歩く恋人達。女から告げられる懐妊。それも他の男との間にできた子ども。
男は易々とこう言う。
きみは僕とともに冷たい海の上を渡っていく、
だが特別な温かさがきらきら輝きながら、
きみから僕へ、僕からきみへと行き交う。
この温かみが見知らぬ子を浄めるだろう。
初めて読んで以来,この詩は私に「赦し」とは何かをいつも投げかけてきた。そう読んできたことは正しい読み方ではなかったのかもしれないという疑問を引き連れて・・・。この詩の中に「赦し」を読もうとする私がそう読みたがっていたとも言える。心の運動でも人は欲望に引きづられるものだ。仮象が存在を引き連れてくる。そうシモーヌ・ヴェイユは「重力と恩寵」で言った。この仮象というものを存在から引きはがすことは容易なことではない。しかし「清められる」ということは欲望を捨てることでしか見えてこない領域だと感じるようになった。無関心だ。あきらめだ。達観だ。そう,そのものを注視しなくなったときに仮象ではない本当の存在は現われるようだ。詩の中の男はそこまで辿り着いている。「赦し」を知っている。そう思った。
「赦し」とは何だろう。
わたしはまだ「赦し」を知らない。想像している仮象を見詰め過ぎている。
写り込んでいる景色に近づきすぎている。


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理容店にて

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霧立ち込める

どうも自分は人とのコミュニケーションの取り方で悩む性質(たち)だといい歳をして薄々と感じてはいたがやはり気になることがあった。コミュニケーションなので相手が悪いわけでもなく,自分が悪いと言うことでもない。ただ交わされる言葉の意味疎通が互いに大きくずれてしまうのだ。そのずれがどうしても不快になってしまう。

先日娘の結婚式に参列するために理容店に行って髪を切りそろえた。
「結婚式に出るので少しはっきりとした感じにしたい」
普段は何も言わずおまかせでやってもらう私だが今回だけは結婚式なのでそう言ってみた。
「どこをどうしたいのですか」と若い男はハサミを持ちながら鏡の中の私に言った。
正直私はとても驚き,言葉が詰まった。明らかに鏡の中の若い男の「どこをどうしたいのですか」という返事には柔らかな拒否が感じられたからだ。「どこをどうしたいのですか」,普通そのような返事はしないだろう。私は髪のプロに結婚式向きのカットを注文したのである。髪のプロが結婚式に参列するという客の言葉を聞いて一体どのような点に気を付けてカットすればよいかは理解できるのではないかと私は予想してそれも幾分下手(したて)に注文したのだ。いや,少なくても髪のプロだったらそれくらいは知っているだろうという勝手な値踏みを私もしていた点に落ち度があるということなのか。ところが何度も言うが髪のプロフェッショナルからの返事はこうだった。「どこをどうしたいのですか」だ。
正直私はその返事にとても驚いた。二の句が継げないほどだった。しまったと思った。こんな若造にこんなことを言うんじゃなかったと思った。大きな鏡の前に人生のフィナーレの黒い幕がするすると下り始めた思いだった。返事の言葉自体に明らかな拒否が感じられた私には次の瞬間,むらむらと湧き上がって来るものを感じた。「どこをどうしたいのですか」という無礼な言葉に対して,それを受けて立つ正統的で紳士的なやり返す言葉だ。私は自然と鼻息が荒くなるのを抑えて言った。
「例えば生え際をきれいにそろえるとかさ・・・。」私は自虐的な照れ隠しのような笑みを浮かべていった。ところがこう言った。
「それは顔そりがやります。どこをどうしたいのですか」
(言葉ではっきりと自分の考えを言え。そうでなければやらんぞ。)こう言われているような気持ちになった。それも少なくても100字以内で簡潔に要点を押さえて言うこと,そんなテストを受けているようだ。

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赤い朝

仕方なくこう言った。「短めの髪で六対四くらいの分け方。後ろは軽く刈り上げるように」(これじゃ。普段通りじゃないか)
「承知いたしました」若い男は言われたように切り始めた。そして顔そりの係の男には「結婚式だそうです」も何も伝えはしなかった。自分の仕事は言われたようにやった。顔そりの同僚も仕事に自信を持っているから客がサミットに出ても結婚式に出ても恥ずかしくない顔そりをするだろうと思っているのだろうか。だから客の情報も伝えないのか。とんでもねえ思い違いをしてねーか。若者っ。成人式もう終わってるよな。
私は負けたのである。最後のセットの係の男が私の結婚式出席を知り,仕上げのスプレーをまるごと一缶使うように吹き付け,私の髪の毛は硬い針金のようになった。
そうか。これが結婚式用の仕上げなのだ。私は泣きそうになりながら思った。
私は若い髪のプロ集団に負けたのである。

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この頃ぱらぱらとしか飛ばなくなった蕪栗沼

私は少なくとも次のような心が満たされる会話を夢見ていた。

私「結婚式に出るので少しはっきりとした感じにしたい」
店「そうですか。おめでとうございます。それでは結婚式ですからはっきりと(髪を)分けましょうか。後ろは少し刈り上げた方が印象がいいですね。丁寧にやらせていだきます。」
私「ああ。頼む」

いずれにせよ。コミュニケーションの難しさをいやと言うほど感じさせられた理容店だった。
次の日,太い針金のような髪で私は娘とバージンロードを歩いた。

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朝の楽しみ

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長沼の美しき朝  昨日1/11撮影

もう一度朝の楽しみとは何だろうと考えてみる。
言っておくが朝は日の出前後30分のことを意味している。大切なことはいつも境目にあって,その時に自分がどこに居ればよいかと言うことだ。当然に朝は夜と昼の境目だ。

夜明け前の空の色
雲の形
冷えて立った空気の層
その場所は牧草地だが小高くなっている。高く繁った藪が人を通すことを拒んでいるように思える。

その朝は何時になく赤くただれたように焼けた空が地平線を取り囲んでいた。
ふとその赤い光が高く繁っている藪の一部分だけが薄く,人が辛うじて登って通れることを教えてくれた。私は遠慮無くその藪の薄くなった急斜面を蔦に巻かれながら犬と一緒に登り始めた。
そうして,なだらかな丘になっている牧草地のてっぺんに易々と辿り着いた。そして思った。
「なぜ今までここに辿り着こうとは思わなかったのだろう。こんなに素晴らしい場所なのに・・・。」
例えば道がなければ人は敢えてそこを通ろうとは思わないだろう。見えているのに辿り着こうとしないのは用意された道がないからだ。犬でさえこの牧草地の丘は辿り着けないものだと今まであきらめていたのだ。

人はどこで今日の朝を迎えたいかを贅沢な選択肢の中から選ぼうとする。あえて何時間も車を走らせて自分の朝に辿り着くこともある。自分の選択肢はベストであることもあるが,いつもそうだとは限らない。素晴らしい朝のこの瞬間を同時に二か所や三か所で味わうことはできないからだ。人が有限であるというのはこのことを指している。すべては一回性の中に居ることからすべては始まっている。これを実存主義は自由と呼ぼうとした。何を選んでもよい,選択する自由だと。しかし実際は違う。それは読み代えた資本主義的な自由なのだ。実存という単語はexistense。接頭辞exは「~外へ」という意味。自分の中にあるものからの選択ではない。敢えて自分の外に出ようとすることが実存という意味なのだ。だから未知の世界に自分が跨ぎ入ることが自由の証になる。これは大した冒険でもある。跳ばないといけない。

こんなに美しい朝を今まで辿り着こうともしなかったこの場所で味わうことが出来たことは何を意味しているかと自問してみる。最高じゃないか。ちょっと日常を変えるだけでこの喜び。犬もそう感じているらしかった。周囲の景色を楽しんでいる。予定されたコースだが,そうでもない。バリエーションルートだ。

すべては自分次第なのだ。自分の中にある贅沢過ぎる選択肢の数々に辟易してはいないか。そう思ったら君は自分の境目にいる。事を起こさなくてはいけない時期に来ているのだ。それは未知の世界への飛躍である。そして自由の証ともなる。


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