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新・遠野物語-江戸時代の石碑が見上げるISS-

髙橋家lineg-s
飯島の空を流れるISS(国際宇宙ステーション)1/21撮影
この場所は江戸時代の石碑がたくさんある場所です。もう夕方には東の空に昇っているオリオン座そこをISS(国際宇宙ステーション)が通過していきます。地上では遠野物語は生き続け,空の上を最新の現代科学が光の軌跡を残していきます。このギャップがいいですね。

今日はお知らせやらお願いやらです。
伊豆沼・内沼サンクチュアリーセンター新田館でスタートした「伊豆沼写真展」は順調に進んでいます。たくさんの方々に見ていただきありがとうございます。この写真展は3~4か月毎に作品を入れ替えますので,また来ていただけると違った写真が展示されています。感想もお寄せ下さい。1ヶ月経過した1月31日午後1時から写真展運営会を行います。関係諸氏や展示希望の方,興味のある方はサンクにいらして下さい。

先日,伊豆沼・内沼サンクチュアリーセンター新田館ではっとFM番組「武川健太の旅するラジオ」(土曜日午後3時~)のロケが行われました。鉄道写真家の武川健太くん。ぜひ聴いてください。また,YouTubeでこの番組の予告編動画が公開されています。
こちらもご覧下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=uSoX5XtbfD0

地元明後日23日午後1時30分から新田公民館で石碑のお話をします。
題して「新田石碑データベース-石碑から見える新田の姿-」です。散歩しながら調べた240余りの石碑をデータベースにしたものを紹介し,データから見えてくる昔の人々の思いや信仰の姿を読み解いていきます。もしよかったらおいで下さい。

石碑種類円グラフ
新田地区の石碑種類円グラフ

年代一覧2
石碑造立年代一覧(部分)

特に馬頭観音信仰について詳しくお話できればと考えております。

資料ご希望の方はコメント欄でお知らせ下さい。

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朝の光

昨年中沢新一の新刊「レンマ学」を読み始めたと書いた。
ところが,読んで見ると一筋縄ではいかない世界で,現代の神話的論理の展開のように思われた。詩的思想学と言ってもいいかもしれない。レンマとはロゴスと対になっているレンマという概念で,「「ロゴス」は「自分の前に集められた事物を並べて整理する」ことを意味しています。その本質は時間軸にしたがう線形性にあります。それに対し、「レンマ」は「直観によって事物をまるごと把握する」という意味です。(この部分引用)」レンマ的思考は,仏教の「縁起」という横断的,拡散的,ネット状,脱時間的な考えの枠を持っています。現在のロゴスの直線的遡及的な原因-結果という考え方の枠の濫用の限界を超えられるのはレンマ的な思考なのだとして,展開していきます。今まで中沢新一を読んできた人にとっては彼から紡ぎ出され続けて来た断片的な詩がここでやっと体系付けられたと歓迎できるかもしれません。しかし,やはり手を広げすぎた感は否めず,読むのに苦労してしまいます。
こういう展開でいつも思うのですが,中沢新一の諸相を体系化する記述は可能なのかということになります。仏教的な「縁起」という一瞬の中に凝縮した無時間を時間化したロゴスで展開・記述することはファイルエラーにならないのだろうか。全く立脚点が違う世界を単純に言えば極めて優れた詩を質を落とさずに注解ができるかというような矛盾が生じます。「縁起」とは部分にして即全体です。それはすなわち時間の無化であり一瞬のうちに拡げられたすべてです。


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屋敷の南に面した池

最も貴地と為す居宅は「左に流水有るを欲す。これを青龍と謂う。右に長道有り。これを白虎と謂う。前に洿池有り。これを朱雀と謂う。後ろに丘陵有り。これを玄武と謂う。最も貴地と為す。」


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新・遠野物語-傾いた鳥居-

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新・遠野物語-傾いた鳥居-

新・遠野物語シリーズは東北のディープな源像をあぶり出すシリーズです。

普通の石を仏とするにはどうするのでしょう。神仏を石の中に呼び込むという事なのでしょうか。石を依り代にして憑依させるということなのでしょうか。石を祠として神仏を住まわせるというのでしょうか。いずれにせよ,道ばたには自然石の仏さまがいます。そして多くが石仏(いしぼとけ)です。
こんな素朴な疑問ですが,よく考えると分からないものです。
全国に伝わる「北条時頼の廻国伝説」というものがあります。今日は当地方に残された伝説の中から時頼が石を仏にするシーンを拾い出してみます。伝説の題名は「山王の桜」です。時頼が「山王の桜」を褒めたたえて帰ろうとするとそこに農民がやってきます。

すると山陰から四,五人の土地の者が走ってきて法師を留め,低頭平身して申すには,この土地は山間僻地のため寺僧や神官が来られたことはなかったが,幸いなことに御僧が本日おいでなされた。邑は今悪疫が流行して人々はほとんど農業を捨て病魔に苦しみ,日夜愁歎の涙が絶えません。願わくば吾等を憐れみ下されて悪魔退散のご祈祷をして下さいと懇願した。法師はこれを聞いて歎息し,石を拾ってくるように命じ,沢から担いできた石に筆で梵字(カ)を書いて高峯(今は高見という)に建てさせ,石に注連縄を張って読経し,祈祷が終わると,不日必ず悪魔が退散するから,その時は注連縄を解きなさい。そしてまた悪疫が流行したり,願いごとがある時には予が結んだように難度でも結んだり解いたりするようにと教えた。邑人たちは大変悦んで一泊されることを願ったが法師は袖を払って,別れを惜しむ人々を後に坂道を戻って帰っていった。
このような方法なのです。注連縄を懸けるという点がポイントなのでしょうか。川から農民が拾ってきた自然石が読経,祈祷によって力を持った石に変わります。梵字(カ)は,地蔵菩薩だと思います。そして効力は注連縄を懸けるとまた復活し,永遠にその効験は失われないのです。すごいことです。


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映り込む「浄夜」

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飛行機雲

「浄夜」 リヒャルト・デーメル

二人の人間が葉の落ちた寒々とした林苑を歩んでいる。
月は歩みをともにし、彼らは月に見入る。
月は高い樫の木の上にかかり、
一片の雲さえこの天の光を曇らさずにいる。
その光のなかに黒い枝が達している。
女の声が語る。

私は子供を宿しています。でもあなたの子供ではありません。
私は罪を背負ってあなたのお側を歩いています。
私はひどい過ちを犯してしまったのです。
もはや幸福があるとは思いませんでしたが
でもどうしても思いを絶てなかったのです、
生きる張り合い、母親の喜びと義務を。
それで思い切って身を委ねてしまったのです、
身震いしながらも、私は見知らぬ人に我が身を任せてしまい、
そんな自分を祝福さえしたのです。
それなのに、今になって、人生は復習したのです、
今になって私はあなたと、ああ、あなたと巡り会ったのです。

彼女はこわばった足取りで歩く。
彼女は空を見上げる。
月はともに歩む。
彼女の黒い眼差しは光のなかに溢れる。

男の声が語る。
きみの授かった子供を
きみの魂の重荷にしてはならない。
見たまえ、この天地万物がなんと澄んだ光を放っていることか。
万物が輝きに包まれている。
きみは僕とともに冷たい海の上を渡っていく、
だが特別な温かさがきらきら輝きながら、
きみから僕へ、僕からきみへと行き交う。
この温かみが見知らぬ子を浄めるだろう。
きみはその子を僕のため、僕の子として産んでおくれ。
きみはこの輝きを僕に運び、
きみは僕をも子供にしてしまったのだ。

彼は彼女の厚い腰に手を回し、
彼らの吐息は微風のなかで口づけをかわす。
二人の人間が明るく高い夜空のなかを歩いていく。


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遠い光

遠い昔に同人誌を出していた。その同人誌の題名が「浄夜」だった。買った黄色い表紙のドイツ現代詩というレクラム文庫でデーメルの詩を知った。そしてソニーから発売されていたブーレーズの「浄夜」を聴いた。そして改めて今「浄夜」を読んでみる。
月の光の下を歩く恋人達。女から告げられる懐妊。それも他の男との間にできた子ども。
男は易々とこう言う。
きみは僕とともに冷たい海の上を渡っていく、
だが特別な温かさがきらきら輝きながら、
きみから僕へ、僕からきみへと行き交う。
この温かみが見知らぬ子を浄めるだろう。
初めて読んで以来,この詩は私に「赦し」とは何かをいつも投げかけてきた。そう読んできたことは正しい読み方ではなかったのかもしれないという疑問を引き連れて・・・。この詩の中に「赦し」を読もうとする私がそう読みたがっていたとも言える。心の運動でも人は欲望に引きづられるものだ。仮象が存在を引き連れてくる。そうシモーヌ・ヴェイユは「重力と恩寵」で言った。この仮象というものを存在から引きはがすことは容易なことではない。しかし「清められる」ということは欲望を捨てることでしか見えてこない領域だと感じるようになった。無関心だ。あきらめだ。達観だ。そう,そのものを注視しなくなったときに仮象ではない本当の存在は現われるようだ。詩の中の男はそこまで辿り着いている。「赦し」を知っている。そう思った。
「赦し」とは何だろう。
わたしはまだ「赦し」を知らない。想像している仮象を見詰め過ぎている。
写り込んでいる景色に近づきすぎている。


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