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朝の楽しみ

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長沼の美しき朝  昨日1/11撮影

もう一度朝の楽しみとは何だろうと考えてみる。
言っておくが朝は日の出前後30分のことを意味している。大切なことはいつも境目にあって,その時に自分がどこに居ればよいかと言うことだ。当然に朝は夜と昼の境目だ。

夜明け前の空の色
雲の形
冷えて立った空気の層
その場所は牧草地だが小高くなっている。高く繁った藪が人を通すことを拒んでいるように思える。

その朝は何時になく赤くただれたように焼けた空が地平線を取り囲んでいた。
ふとその赤い光が高く繁っている藪の一部分だけが薄く,人が辛うじて登って通れることを教えてくれた。私は遠慮無くその藪の薄くなった急斜面を蔦に巻かれながら犬と一緒に登り始めた。
そうして,なだらかな丘になっている牧草地のてっぺんに易々と辿り着いた。そして思った。
「なぜ今までここに辿り着こうとは思わなかったのだろう。こんなに素晴らしい場所なのに・・・。」
例えば道がなければ人は敢えてそこを通ろうとは思わないだろう。見えているのに辿り着こうとしないのは用意された道がないからだ。犬でさえこの牧草地の丘は辿り着けないものだと今まであきらめていたのだ。

人はどこで今日の朝を迎えたいかを贅沢な選択肢の中から選ぼうとする。あえて何時間も車を走らせて自分の朝に辿り着くこともある。自分の選択肢はベストであることもあるが,いつもそうだとは限らない。素晴らしい朝のこの瞬間を同時に二か所や三か所で味わうことはできないからだ。人が有限であるというのはこのことを指している。すべては一回性の中に居ることからすべては始まっている。これを実存主義は自由と呼ぼうとした。何を選んでもよい,選択する自由だと。しかし実際は違う。それは読み代えた資本主義的な自由なのだ。実存という単語はexistense。接頭辞exは「~外へ」という意味。自分の中にあるものからの選択ではない。敢えて自分の外に出ようとすることが実存という意味なのだ。だから未知の世界に自分が跨ぎ入ることが自由の証になる。これは大した冒険でもある。跳ばないといけない。

こんなに美しい朝を今まで辿り着こうともしなかったこの場所で味わうことが出来たことは何を意味しているかと自問してみる。最高じゃないか。ちょっと日常を変えるだけでこの喜び。犬もそう感じているらしかった。周囲の景色を楽しんでいる。予定されたコースだが,そうでもない。バリエーションルートだ。

すべては自分次第なのだ。自分の中にある贅沢過ぎる選択肢の数々に辟易してはいないか。そう思ったら君は自分の境目にいる。事を起こさなくてはいけない時期に来ているのだ。それは未知の世界への飛躍である。そして自由の証ともなる。


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