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新・遠野物語「蛇神の行方6-身体の中の蛇-」

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続く道

先回は蛇の登場する昔話などを取り上げましたが,蛇が究極の執念深さや愛憎劇の表象として登場する話も随分あります。
「娘道成寺」などその最たるものですね。「安珍清姫」の話です。男前の安珍に一目惚れとした清姫は嘘を重ねて逃げようとする安珍に怒り,とうとう蛇に変身して鐘の中に隠れた安珍を鐘ごと焼き殺してしまう話です。「雨月物語」の「蛇性の淫」も蛇の執念の話です。また踊り念仏の一遍が発心したきっかけの話もあります。抜き書きします。
若い頃の一遍には二人の妾がいた。二人とも美しく心優しい性格をしており、一遍は両人を同じ位深く寵愛、また妾同士も仲良くしているようであった。しかしある日二人が碁盤を枕にうたた寝していると、突然二人の髪が立ち上り小蛇となって食い合った。それを見た一遍は刀で蛇同士を切り離し、執心や嫉妬の恐ろしさを知って出家したという
こんな話が「北条九代記」にあるそうです。これと全く同じパターンの話が高野山苅萱堂に伝わる「苅萱」の伝説で,巷では「石童丸伝説」として父と子の再会に涙誘われる物語です。

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宮城龍神 迫町北方上の台

「蛇女房」のように助けてもらったお礼にやってくるのではなく,憎しみの化身としての蛇は祟りの話と相まって恐ろしいものです。これらの話はむしろ仏教説話として広まったものが多く,南北朝・室町期から江戸にかけて特に唱導文学の領域で庶民にも深く浸透していったのでしょう。従って特に蛇の恐ろしい祟りや復讐の面が一般の人々の心に深く根付いてしまったのでしょう。

あの「宇賀神」の人首蛇体という奇妙な形は,「蛇身是れ三毒極成の体なる故に三悪道を摂る」とありました。三毒とは仏教の言う最も根本的な三つの煩悩、貪・瞋・癡(とん・じん・ち)のことを言います。貪・瞋・癡(とん・じん・ち),つまり貪り,怒り,愚かさです。この人間が本来持っている成仏を妨げる貪・瞋・癡(とん・じん・ち)という煩悩が蛇という形で表現されているのです。

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蛇王権現 

ところが蛇はただ単に人間の煩悩をシンボライズしているだけではないのです。驚くべき事に蛇そのものが人体に組み入れられているのです。ここから山本ひろ子「変成譜(へんじょうふ)」春秋社1993の中の「龍女の成仏」の章の流れに沿って引用したりします。
14世紀に成立した天台密教の書「渓嵐拾葉集」に次のようにある。

此に正法に約する時,我等が水輪の中に本初の龍神有り。此の龍神とは,我等が遍知分別の全体なり。

「正法」とは過去の業因によって受けた心身のことを言い,その心身は龍神として認識されているということです。「水輪」とはこの世界の五大元素である地水火風空の「水」を指しています。まさに「水」は人間の身体の構成の基底ということです。ところが我々の身体の水の中に龍神がいて,その龍神が遍く一切の法を知る智恵と考え分別する力を持っていると言うのです。

我等が水輪中に肺臓有り。其の中に金色の水有り。其の中に二三寸の蛇有り。我等が第六の心王なり。肺臓は西方の妙観察智の所在なり。妙観察智は第六識・邪正分別の識なり。是我等が思量なり。其の種字は「ウン」字なり。この字即ち弁才天の種字なり。所詮我等が無作本有の体は蛇形なり。蛇曲の心なり。

私たちの体内の肺臓の中に金色の水があってその中に二三寸の蛇が棲んでいるというのです。そしてその邪正分別の思量は弁才天として現れ出るというのです。
ここで宇賀神と弁才天が同じ種字「ウン」で表される点でつながったわけです。宇賀弁才天の誕生です。そして蛇と弁才天は同極異相であるのです。

驚くべき展開です。

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丘の上

人間の身体の中には蛇がいる。と同時に弁才天もいる。
この論理は人間そのものに三毒が内在していることからこの三毒を消し去る行(ぎょう)によって正なる妙観察智へ近づき弁才天へと連なるという考えでしょう。逆に三毒を消し去る行を積まないのであれば邪なる観察智ばかりで蛇という畜生道に落ちるぞと言っているのです。

ここまで来て庚申信仰に似ていると気付きませんか。庚申信仰の身体の中に虫がいるという三尸の考え方に近いのです。天台密教はこうした三尸説なども思想に吸収しながら学説をつくり上げていったようにも思えてきます。しかし天台密教と庚申信仰は雲泥の差があります。ただどうして庚申信仰は全国的にこれ程までも大流行を作り出すことができたのでしょうか。宗派仏教と民間信仰の関係はどうなっていたのでしょうか。
次回は石碑板碑を手がかりに両者の関係を見てみたいと思います。


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