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陰翳ある緑

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緑の中の「雨ニモマケズ」

つい先日のことでした。
テレビで「四次元の賢治-完結編-」というオペラを放映していました。中沢新一が脚本を書いたと憶えていたので観てみました。中沢新一がつくろうとしている「レンマ思考」という世界解釈の枠に賢治の考えはどのように溶け込んでいくのだろうという興味もありました。とても素晴らしい完成度の作品でした。
今日はまたつらつらと作品を観た感想と賢治について書いてみます。

賢治はすべてが幸せによって統一される世界を望んでいました。その秩序付けられた世界は宇宙原理とも言っていい自然の法則と同じ方向を向いていることで成り立っていました。すくなくてもそう望むことは賢治でなくても万民みなそういうおもいでしょう。
たゞひとつどうしても棄てられない問題はたとへば宇宙意志といふやうなものがあってあらゆる生物をほんたうの幸福に齎したいと考へてゐるものかそれとも世界が偶然盲目的なものかといふ所謂信仰と科学のいづれによって行くべきかといふ場合私はどうしても前者だといふのです。すなわち宇宙には実に多くの意識の段階がありその最終のものはあらゆる迷悟をはなれてあらゆる生物を究竟の幸福にいたらしめやうとしてゐるといふまあ中学生の考へるやうな点です。(書簡252c下書(四))
ここには宇宙原理は善である。自然は善である。自然は悪を行わないという基本的な大枠があります。ここに賢治の汎神論的一元論というスタンスがあります。野も山も草花も虫も人も自然の成果ですからみな平等であり,かけがえのないものです。つまり自然に対する絶対的な信頼に基づいています。太陽を中心としたこの銀河系の法則〈宇宙原理〉に逆らうことはできないということです。これらの考えは世界に存在するものに差別化を好まない幼少期に仏教によって育まれた賢治の性格と一致するでしょう。
「四次元の賢治-完結編-」のラストで「私はわたしであって私ではない」と何回か繰り返されます。
このようなセリフを聞くと私は「インドラの網」という賢治の作品を思い出します。ちょっと最後の方を引用してみます。
百千のその天の太鼓は鳴っていながらそれで少しも鳴っていなかったのです。私はそれをあんまり永く見て眼も眩くなりよろよろしました。
「ごらん、蒼孔雀を。」さっきの右はじの子供が私と行きすぎるときしずかに斯う云いました。まことに空のインドラの網のむこう、数しらず鳴りわたる天鼓のかなたに空一ぱいの不思議な大きな蒼い孔雀が宝石製の尾ばねをひろげかすかにクウクウ鳴きました。その孔雀はたしかに空には居りました。けれども少しも見えなかったのです。たしかに鳴いておりました。けれども少しも聞えなかったのです。  そして私は(三人の天の子供に会いながら)本統にもうその三人の天の子供らを見ませんでした。
 却って私は草穂と風の中に白く倒れている私のかたちをぼんやり思い出しました。
どうして賢治はこのような現実ではないような夢うつつのような書き方をするのでしょう。見たものは本当は見なかった,聞いたがあれは幻聴だったと打ち消していく。話自体が確かに眠っていての夢の話であることは確かなのですが・・・。
私はここに賢治の実際に見えているものへの心細さ,つまり今見えている現象自体が幻であるとしてしまう虚ろさや空しさを感じ取ってしまいます。つまり仏教の空論を賢治はどう考えていたのだろうと思わされるのです。そこで私が「銀河鉄道の夜」で理解しがたい箇所としたあの文章に行き着きます。
そのひとは指を一本あげてしづかにそれをおろしました。するとジョバンニは自分といふものがじぶんの考といへものが、汽車やその学者や天の川やみんないっしょにぽかっと光ってしぃんとなくなってぽかっとともってまたなくなってそしてその一つがぽかっとともるとあらゆる広い世界ががらんとひらけあらゆる歴史がそなわりすっと消えるともうがらんとしたたゞもうそれっきりになってしまふのを見ました。だんだんそれが早くなってまもなくすっかりもとのとほりになりました。
ぽかっと光っては見え,また消えるという明滅は「春と修羅」を思い出させます。「わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です/ (あらゆる透明な幽霊の複合体)/ 風景やみんなといつしよに/ せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける/因果交流電燈の/ひとつの青い照明です/ (ひかりはたもち、その電燈は失はれ) 」
賢治は今自分に見えているものが限定的で,真実を見ているとは限らないと思っていたのではないでしょうか。その普遍性のない特殊な自分にしか見えていない映像を「心象」つまり「メンタルスケッチ」と言うしかなかった。実に徹底しています。

賢治のこうした視覚や思考のどこか科学的でない「心象」の成果をどうにかして「虚無」ではないようにしていきたいという意志がありました。私は賢治のそうした科学的な姿勢で文学を昇華させていこうという態度を,良識的な文化人が持つ「謙虚なる最高の自由への旅人」と呼びたくなります。


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