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新・遠野物語-蛇神の行方7「苅萱(かるかや)」-

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この新・遠野物語シリーズは東北の中世や近世の風景を写真や文章で再現しようとするものです。
この特集「蛇神の行方」は「蛇」に着目した民間信仰の様子を考えています。先回の6回目が3月でしたから2か月ぶりのアップになります。各所にある「己巳供養塔」「巳待塔」「蛇神」「蛇王権現」「庚申塔」「龍神」「弁天」「弁財天」「白蛇弁財天」などの石碑はすべてが何らかの形で「蛇」と結びついています。まず,民俗学では蛇や龍を水の神と雷鳴や稲妻から,「雷神」も蛇と関連して語られてきました。また,日本五大弁財天(弁財天の権現は蛇)の一つ,金華山が石巻にあるので弁財天の使わしめとしての蛇の存在がまた強く出ている地域です。この弁財天は,宇賀神という蛇身人頭と弁才天が合体した宇賀弁才天としての存在感も持ち合わせています。そして先回は昔話や諺にある蛇の話などを取り上げてきました。

宇賀弁才天の話で蛇は三毒の象徴と言われていました。三毒とは仏教の言う最も根本的な三つの煩悩、貪・瞋・癡(とん・じん・ち)のことを言います。この三毒を制御することが「三悪道を摂る」という意味です。障碍を除き,福徳を授け,財に預かる弁天信仰は七福神の一つとして「弁財天」と発展,重ねて水の神としても全国に知れ渡るようになりました。その弁才天のこの世での姿(垂迹形)が「蛇」なのです。

そして今日は説教節「苅萱(かるかや)」です。
私がこの「苅萱」を実際に見たのは神楽の演目「石童丸」でした。
石童丸は母と,自分が生まれる前に出家した父を訪ねて高野山に登り,父と不動坂で対面することになります。しかし,顔さえ見たこともない父ですから,今この不動坂で出会った目の前の僧が父だとは分かりません。一方,父(苅萱道心)は話している内に正に自分の息子,石童丸だと分かりますが,実際は自分ももう出家した身,「そなたの父は亡くなった」と嘘をつくことになります。この辺りが一つの山場ですが,父との再会を果たしたい,純粋でまっすぐな気持ちを持った石童丸と出家した手前,捨てた我が子を抱き寄せることすらできない父親の葛藤が最高潮に達します。苦渋の果て,なんとか嘘をついてその場を取り繕うしかない父親の葛藤が激しくまっすぐな気持ちの石童丸とぶつかり合います。二人はついに他人のまままた生き別れることになります。
石童丸はとぼとぼと高野山の坂を下り,下で待つ母に父はもう亡くなっていたことを伝えなければいけない哀しさ,情けなさにさいなまれます。ところが,下で待っている母の宿に着くとなんと母は石童丸が高野山に登った日から倒れ,病気で亡くなっていたことを知らされます。
なんとも悲しい,この世の理不尽が幼気(いたいけ)のない子どもに次々と降りかかっていくのがこの説教節の魅力です。同じ説教節で思い出すのは森鴎外が再話した「山椒大夫」でしょう。あの安寿と厨子王の受ける仕打ちや残酷さが「苅萱」の石童丸にも当てはまります。悲しい涙を誘います。

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苅萱 妻,妾が蛇になって争う場面 この場面は後から付け加えられたという説がある。

さてこの「苅萱」という話は,元々,筑前国の武将、加藤左衛門尉繁氏は六カ国を知行し,八万騎の侍の大将の身です。恒例の花見の宴を開いたその時に杯に一房の桜花が落ち,杯の縁を三回回ったそうです。正にその時,繁氏はこの世の無常を知り,すべてを捨てて仏門に入ることを決心します。一族郎党はすべて繁氏の出家を止めますが,当の大将はすべてを振り切って高野山に登ります。杯に一房の桜花が落ちたことで富も栄誉も家族も妻も三歳の鶴姫やお腹の中に居る石童丸という子どももすべてを捨てて出家するという話です。こうした話は高野聖がつくって語りとして広めたと言われていますからこのような言わば遁世譚として成立するのでしょう。

ところが実際,花が散ってこの世の無常を知ったためにすべて置き去りにされる方の身になって考えると,繁氏もかなり自分勝手な,無責任な行いだとも思われます。水上勉の「説教節を読む」の中でも水上はそんな無責任なことは・・・とため息をつきます。
と・・・。時間を経るに従い,話に説得力を増させるためなのか,新しいエピソードが加わっていきます。繁氏が妾を持って,その妾
と家族が同居している中で妻と妾の嫉妬の嵐が吹き荒れるというエピソードです。この妻と妾が表面上は仲良くもしながら,夜,互いの髪が蛇と化し,いがみ合い,喰らい合うというシーンが「苅萱」の筋に付け加えられたといいます。
物語の効果としては繁氏の出家の理由が女同士の醜い争いが出家の理由として急浮上していき,話の筋に納得感がまされていくわけです。このエピソードを付け加えることで出家の理由がはっきりと,聞く者にも矛盾なく感じることができるというものです。

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女同士が髪を蛇にして争う場面

この女の髪が蛇と化すという話は,「苅萱」の中では「蛇身と書いて女と読む」という書き方が出てきます。
これがまるで身体は蛇で,頭は人という「宇賀神」を表象しているように感じませんか。この蛇はそのまま「三毒」を表しているのです。「蛇身是れ三毒極成の体なる故に三悪道を摂る」とあり,その三毒とは仏教の言う最も根本的な三つの煩悩、貪・瞋・癡(とん・じん・ち)のことを言っています。貪・瞋・癡(とん・じん・ち),つまり貪り,怒り,愚かさです。この人間が本来持っている成仏を妨げる貪・瞋・癡(とん・じん・ち)という煩悩が蛇という形で表現されているのです。「苅萱」でもこの蛇の存在が付け加えられました。
ところで類似する話に「西行出家物語」にも西行が出家する際に泣きすがる子を足蹴にしたというエピソードがあります。また,一遍の出家の際にも似たエピソードがあります。
若い頃の一遍には二人の妾がいた。二人とも美しく心優しい性格をしており、一遍は両人を同じ位深く寵愛、また妾同士も仲良くしているようであった。しかしある日二人が碁盤を枕にうたた寝していると、突然二人の髪が立ち上り小蛇となって食い合った。それを見た一遍は刀で蛇同士を切り離し、執心や嫉妬の恐ろしさを知って出家したという
この一遍の出家譚は後に一遍自身に起こったことではなく,一遍の親戚に起きたことを一遍が見ていたという話に変わっていきます。この一遍の蛇髪譚のエピソードが「苅萱」の中に取り入れられたようです。いずれにしても浄瑠璃や歌舞伎で「苅萱」を創作していった作家達が当たりを取るためにより過激に仕立てていったことは言えるのかもしれません。

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今朝のさんぽ道


蛇はこのように煩悩の極致として表現され続け,演劇を通して民衆に深く浸透してきたことは確かです。そして蛇が表象しているものは,人の貪り,怒り,愚かさということが分かります。
次回はこのエピソードの起こりがどの辺にあるのかを探っていきたいと思います。そしてどうしても蛇と人とのこうした関わりが室町以前にはもう出ていたと考えています。その辺を弁財天信仰との関係で解決できたらと思います。難しいですが・・・。



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