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夏の終わり「風の又三郎」

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夏の終わり  栗駒山にて

9月に入りました。

9月というと,宮沢賢治の「風の又三郎」が始まるのが九月一日という設定でした。

どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう

 谷川の岸に小さな学校がありました。
 教室はたった一つでしたが生徒は三年生がないだけで、あとは一年から六年までみんなありました。運動場もテニスコートのくらいでしたが、すぐうしろは栗くりの木のあるきれいな草のでしたし、運動場のすみにはごぼごぼつめたい水を噴ふく岩穴もあったのです。
 さわやかな九月一日の朝でした。青ぞらで風がどうと鳴り、日光は運動場いっぱいでした。黒い雪袴ゆきばかまをはいた二人の一年生の子がどてをまわって運動場にはいって来て、まだほかにだれも来ていないのを見て、「ほう、おら一等だぞ。一等だぞ。」とかわるがわる叫びながら大よろこびで門をはいって来たのでしたが、ちょっと教室の中を見ますと、二人ふたりともまるでびっくりして棒立ちになり、それから顔を見合わせてぶるぶるふるえましたが、ひとりはとうとう泣き出してしまいました。というわけは、そのしんとした朝の教室のなかにどこから来たのか、まるで顔も知らないおかしな赤い髪の子供がひとり、いちばん前の机にちゃんとすわっていたのです。そしてその机といったらまったくこの泣いた子の自分の机だったのです。 (引用ここまで)

「風の又三郎」は「二百十日」に当たる九月一日が台風の多い日や風の強く吹く特異日だというをもとに構成されているように感じます。九月一日水曜日は,秋に入り「二百十日」の日に当たり,谷川の岸の小さな学校の2学期の始まりの日です。そこに北海道からお父さんの仕事の事情で5年生に転校してきた赤い髪の高田三郎は奇妙な子どもでした。
変てこなねずみいろのだぶだぶの上着を着て、白い半ずぼんをはいて、それに赤い革の半靴をはいていたのです。
 それに顔といったらまるで熟したりんごのよう、ことに目はまん丸でまっくろなのでした。いっこう言葉が通じないようなので一郎も全く困ってしまいました。

高田三郎のお父さんは師で,どうやら「上の野原の入り口にモリブデンという鉱石ができるので、それをだんだん掘るようにするため」にこの土地へ来たようです。モリブデンという鉱石を掘り,「鉄とまぜたり、薬をつくったりする」と説明されています。
九月二日(木)
学校の勉強が始まる。
九月三日( )学校が終わって遊んでいた子ども達。逃げた馬を追いかけていた嘉助と三郎でしたがとうとう離ればなれになり,嘉助は迷った挙げ句疲れ果てて寝てしまい,三郎の夢をみます。
 そんなことはみんなどこかの遠いできごとのようでした。
 もう又三郎がすぐ目の前に足を投げだしてだまって空を見あげているのです。いつかいつものねずみいろの上着の上にガラスのマントを着ているのです。それから光るガラスの靴くつをはいているのです。
 又三郎の肩には栗くりの木の影が青く落ちています。又三郎の影は、また青く草に落ちています。そして風がどんどんどんどん吹いているのです。
 又三郎は笑いもしなければ物も言いません。ただ小さなくちびるを強そうにきっと結んだまま黙ってそらを見ています。いきなり又三郎はひらっとそらへ飛びあがりました。ガラスのマントがギラギラ光りました。

九月四日(金)
ブドウを取りに行ったりします。
九月五日(土)
沢に水遊びをしていると発破による漁をしています
九月六日(日)
沢で水遊びをします。魚の毒もみをします。雷が鳴り出しました。
九月七日(月)
一郎が三郎の夢をみます。朝起きると激しい嵐の朝でした。皆が学校へ行くと,高田三郎がまた北海道の学校に戻って行ったことを知ります。
以上が文章の期日に従って日記風にしたものですが,物語の時間や整合性を辿り直すと全集では九月一日は木曜日で,最後の日は九月十二日(月)になっているようです。実際賢治が死んだ翌年1934年(昭和9)に発表された,この「風の又三郎」は暦通りに九月十二日が月曜日になる年とは何年になるのでしょうか。暦を辿ると九月十二日が月曜日になる年は1932年(昭和7)となります。「雨ニモマケズ」が書かれたこの昭和7年という年の暦を日記風「風の又三郎」の時間軸にしつらえたのでしょうか。ここでその周辺のことを考えてみたいと思います。前年の年譜をみてみましょう。
1931年9月9日(水)(賢治35歳)、この日も盛岡に出て、9月11日から県主催で開かれる「肥料展覧会」の準備を行ったと推定される。
 また、9月初めに訪ねた上郷村の元教え子沢里武治あて(書簡386)および武治の父連八あて(書簡387)に、礼状を書いた。この訪問で賢治は沢里に、「風の又三郎」冒頭の「どっどど どどうと…」の詩を朗誦し、これに曲を付けることを依頼したが、結局沢里は作曲できなかったという。
とある通り,賢治は病床から起き上がると東の東北砕石工場技師として働きます。一方で風の又三郎を完成させるために音楽が堪能な教え子沢里武治に冒頭のどっとどどどうどの詩に曲を付けてもらうよう依頼をします。この年はしきりに音楽と作品を結びつけようと沢里武治との交遊を深めようとしています。また「童話文学」へ掲載する第三の作品,これこそ「風の又三郎」だと思われますが,取材を兼ねて「細越近辺乃至沓掛」当たりへ同行願えないかと沢里に手紙で打診しています。(書簡1931,8,13)そしてもらった返事に対し,8月18日(火)にすぐ手紙を書きます(書簡379)。
 「水沢からのお手紙拝誦しました。廿日に当地においでのことそれならば殊に好都合ですから切にお待ちいたして居ります。作曲の方はこれからもどしどしやられ亦低音部がゆるやかに作ってあればセロをも入れられるでせうし第一に歌詞ない譜曲だけスケッチして置かれれば歌詞は私が入れませう。仙人峠の方は今月末或は寧ろ学校が始まってからの方が好都合な点もあります。それはこの頃「童話文学」といふクォータリー版の雑誌から再三寄稿を乞ふて来たので既に二回出してあり、次は「風野又三郎」といふある谷川の岸の小学校を題材とした百枚ぐらゐのものを書いてゐますのでちやうど八月の末から九月上旬へかけての学校やこどもらの空気にもふれたいのです。とにかく二十日にはお待ちして居りますから駅前から電話をかけるか或は当日は朝顔会があるので午前中は町役場(館)の二階に居りますからそちらへ訪ねて下さるなら殊に好都合です。まづは。」しかし九月二十日はトランクを持って東京に出て,死を覚悟する「雨ニモマケズ」を書く重篤な病状が再発した日となりました。約束は果たされなかったのです。晩年沢里武治に手紙を書きますが,もうその文面には風の又三郎の冒頭の詩の作曲や取材の同行依頼の気持ちもなくなっています。

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それでは「風の又三郎」はいつ頃から形を成していたのでしょう。
宮澤清六著『兄のトランク』に、次のような一節があります(p.90)。

 ・・・・・・大正十二年の正月に、兄はその大トランクを持って、突然本郷辰岡町の私の下宿へ現われた。
 「此の原稿を何かの雑誌社へもって行き、掲載さして見ろじゃ。」と兄は言い、それから二人で上野広小路へ行って、一皿三円のみはからい料理を注文して財布をはたき、さっさと郷里へ引き上げた。
 当時学生の私は、そのトランクを「婦人画報」の東京堂へ持って行き、その応接室へドシッと下し、小野浩という人に「読んで見て下さい」と言って帰ったのだ。
 あの「風の又三郎」や、「ビヂテリアン大祭」や「楢ノ木大学士の野宿」などと言う、桁っ外れの作品が、どうして婦人画報の読者たる、淑女諸氏と関係ある筈があろう。
 そいつを思う度毎に、私はあまりの可笑しさに、全く困って了うのだ。
 「これは私の方には向きませんので」と数日後にその人は慇懃に言い、私は悄然とそれを下げて帰ったのだ。
 そしてそのトランクは、またうすぐらい蔵の二階にしまわれて、九年という長い年月を経たのである。・・・・・・(この部分引用。引用元は「宮沢賢治の詩の世界」)
とあるように賢治26歳。大正12年(1923)正月のトランクの中にもう「風の又三郎」の原型はあったようです。ひょっとして亡くなる前のトシに読み聞かせていたものかも知れません。

「風の又三郎」は幻想味,異界感,自然や季節の細かい描写,嘉吉が迷ったの孤独感等,風というモチーフを中心とした一流の作品と言えるでしょう。
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