FC2ブログ

新・遠野物語―9年7か月の大川小学校―

DSC_1671-22gs.jpg
大川小学校で雨ニモマケズ

今日は11日。月命日。
河北新報では特集「復興再考」で大川小学校判決から1年経って,「10年遅れ」というタイトルで記事が書かれている。大川伝承の会の語り部はここ4年で15000組の見学者を案内してきた。すべて宮城県外の人達だそうだ。遺族の会の方は石巻市教育委員会は大川小事故に向き合おうとしていないのではないかと語ったという。

私自身にとっても誰にとっても大川小学校の事故は東日本大震災という1000年に一度の未曾有の災害の恐ろしさをそのままに突きつけられた出来事だった。大川小学校はもちろん,学校のある地区は新町裏と地図にあり,町並みが続いていた。そのひと街がそのままなくなったのだ。近くにある,地区の犠牲になった方々の慰霊碑を見ると二歳の子どもの名もあった。

柳田國男が大正9年8月に東北に入った時は以下のような日程だったと思われる。
8月2日(月)東京出発
8月4日(水)仙台出発,野蒜,小野,石巻,女川浦,飯野川,登米,佐沼へと続く 石巻辺りは遠藤源八,毛利総七郎案内か
8月7日(土)船越泊(石巻市雄勝)

8月8日(日)~9日(月)石巻,飯野川,柳津,登米,佐沼,南方-この辺りは高橋清治郎案内か

8月10日(火)一関
8月12日(木)一関出発,岩谷堂,人首
8月13日(金)遠野
8月15日(日)遠野出発

8月4日(水)に仙台を出発してから野蒜,小野,石巻,女川浦,飯野川,登米,佐沼へと続くが記録がうまく取れない。ただ8月7日(土)に船越泊(石巻市雄勝)に泊まったとある。大川地区へは次の言葉で来たことが伺える。
中一日置いて次の日には,自分は十五浜からの帰りに,追波川から上ってくる発動機船の上にいた。大雨の小やみの間に,釜谷の部落を見ようとして甲板に立つと・・・(略)
この辺りがどうやら船上からではあるが柳田國男は大川地区を見ていたであろう。

私が大川地区を知ったのは,翁倉山(531.4M)へ登った折であった。山頂から視界が開けた南東部を見下ろすと,広い北上川に新北上大橋が架かっていた。その橋の根元が大川地区である。津波の映像でこの新北上大橋が波に呑まれ,橋にぶつかった津波が白くしぶきを上げている様子が放送された。その映像に学校大丈夫かという男の人の声も入っていた。翁倉山の頂上付近から撮られた映像だと分かった。
しかし,まさかあんなことに・・・。


DSC_0731gs.jpg
林の中で雨ニモマケズ

DSC_1382-2s.jpg
大川小学校卒業記念の壁画は宮沢賢治の銀河鉄道の夜でした。そこに子ども合作の雨ニモマケズを置きました。

大川小学校に子ども達と一緒に書いた雨ニモマケズの巻物を持っていったのは,今年の5月4日の子どもの日を前にした時だった。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」は298文字全55行からできている。子ども一人が一文字ずつ好きな色で書いていくと総勢298名の子どもの手によって書かれた作品になります。文字も行替えもすべて:賢治が「雨ニモマケズ」を残した手帳通りにしました。子どもたちは時に真剣に,時に楽しく,時に笑いながらこの作品を書いてくれました。折角書いてくれたこの作品を写真として残したいと思い,新遠野物語シリーズの一環として「一人一文字雨ニモマケズ」を始めることにしました。そして大川小学校でその雨ニモマケズの寄せ書きを広げることにしたのです。

大川小学校で宮沢賢治好きの子ども達がつくった「銀河鉄道の夜」の壁画とこれまた賢治好きの子ども達が書いた「雨ニモマケズ」の寄せ書きを引き合わせたい。つまりまだ子ども達にとって宮沢賢治の作品を通した交流が時空を超えて続けられると思わせたいと自分がいたのです。9年たった今でも勉強中だよ。今度は「雨ニモマケズ」を書いてきたよと大川小の子ども達に伝えたいと思う一心で出かけて行きました。

DSC_1592-2gs.jpg
大川小学校で雨ニモマケズ

追波湾から北上川沿いに吹いてきた風は夕方に連れて強くなっていき,やがて雨ニモマケズの寄せ書きを飛ばす程になりました。しかし風は大川小学校の子ども達の喜びに起こす風だと感じました。だって互いに「風の又三郎」だもの。

DSC_1635-2gs.jpg
大川小学校で雨ニモマケズ

教室で,講堂で,音楽室で,図書コーナーで階段で。とにかく雨ニモマケズを広げて大川小学校の子ども達と読み合い,朗読し合い語り合いました。
今ではその雨ニモマケズの寄せ書きはしわしわになっていますが,次の授業の為にアイロンをかけて皺を取り,ちゃんと準備しています。

DSC_1501-2s.jpg
大川小学校で雨ニモマケズ
スポンサーサイト