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道をそれる不安

17の月 2013-01-29 016s  伊豆沼17の月
宮澤賢治の詩「小岩井農場」は歩きながら,その目に見える景色とそこから自分の思考に入り込む転換を忠実に記録しようとした風景と思考の瀬戸際を描くドキュメンタリーです。景色を見ていると思えば,次の瞬間に自己対話のように自分の思考が景色の隙間に入り込んだりするものです。
栗駒3.4 428-2s
 実は私たちは歩きながらよくこんなことを自然とやっているものです。
 風景から自分の内部への軽々とした転換。
 賢治の詩「小岩井農場」の最後パート九では不安定な思考の切れ切れのまとめをしながらラストの一行「わたくしはかっきりみちをまがる」へと切れ込んでいきます。賢治は歩きながらのその切れ切れの思考の道筋をその不安定さ故に「ひとは透明な軋道をすすむ」と言います。
栗駒3.11 228-2s
 風景と思考との関係を忠実に再現することで一体何が見えてくるのでしょうか。

 たぶん自分がどれだけ自然の受け皿になっているかが明らかになり,風景によって自分の内部が刺激されて湧き上がってくるものが何なのかを突き止めようとしているのでしょう。刻一刻と変化する風景が自分の中の何を呼び覚まそうとするのか。その実験をしているのだと思います。
ユリアがわたくしの左を行く
大きな紺いろの瞳をりんと張って
ユリアがわたくしの左を行く
ペムペルがわたくしの右にゐる
ここに出てくるユリアとペンペルというのは,ジュラ紀とペルム紀だと言われています。思考は時間軸を遙かに飛び越えてその場にいとも簡単に何億年前の風景が出現するという賢治独特の場のつくり方。おもしろいです。

 もし風景とそこから湧き上がる感情との関係が科学的に明らかになれば,元気がないとき自分がどの風景を見ればよいのか。悲しみの感情はどんな風景を見たときなのかが明らかになるのです。これは音楽とそれによって引き起こされる感情の関係に似ています。または色と感情の関係に似ています。 
栗駒3.4 086-2s
 散歩しながら,風景を見ていると思えば,自分の中から言葉が湧き上がり,独り言のように何かを呟くなんてことありませんか。その瞬間瞬間に私たちは感じたもの,まるで純粋経験のような,生のリアリティーが自然から引き起こされてくるのです。それが瞬間に言葉に変換されていく,その妙たるや自然の中にいる賢治が突き止めたくなるのは至極当たり前のことだったのでしょう。
栗駒3.4 501-2s
 実は写真を撮るときにも,言葉に似た変換作業を私たちは行っているのです。
 ただの記録写真ではないリアリティーのある写真に出会い,私たちは感動します。普通の写真とどこが違うというのでしょうか。写真を撮るとき,私たちは何をしているということなのでしょうか。
 実に不思議です。

 とにかく賢治は自分と外界との接点を執拗に書き続けました。そしてその接点に異界(新しい空間)を見いだそうとしていました。時間に縛られ,時間に制御されている常識を打ち破ろうと格闘していたのかもしれません。それが第四次元への接近だと私は感じています。

一枚目だけ伊豆沼,後は栗駒山

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コメント

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Re: タイトルなし

sizukuさん。いつもありがとうございます。
ここ1か月山に入っていませんでしたが,やっと樹氷を見に行けました。天気はよくなかったんですが,山の雰囲気を味わい,リフレッシュすることができました。栗駒山の晴れるのを待っています。

風景の中のリアリティ…なんとなくわかる気がします。
山や野を歩いている時に、心を動かされる瞬間、やはり、写真に撮りたいと思います。
nittaさんのお写真を見ていると、心に響くものが撮ってもたくさんあります。
ブナの巨木を照らす朝の太陽、何百年も生き続ける巨木には、毎朝同じように朝が巡る。

雪の上の木の陰、冬木立はその真の姿をさらけ出している。その真の姿が、映り込む、純白のキャンパス。
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