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サクリファイス「なめとこ山の熊」

栗駒世界谷地1.13 2013-01-13 613-2s栗駒山に雪煙舞う

小十郎は油断なく銃を構へて打つばかりにして近寄って行ったら熊は両手をあげて叫んだ。

「おまえは何がほしくておれを殺すんだ。」

「あゝ、おれはお前の毛皮と、胆のほかにはなんにもいらない。それも町へ持って行ってひどく高く売れると云ふのではないしほんたうに気の毒だけれどもやっぱり仕方ない。けれどもお前に今ごろそんなことを云はれるともうおれなどは何か栗かしだのみでも食ってゐてそれで死ぬならおれも死んでもいゝやうな気がするよ。」
「もう二年ばかり待って呉れ、おれも死ぬのはもうかまはないやうなもんだけれども少しし残した仕事もあるしたゞ二年だけ待ってくれ。二年目にはおれもおまえの家の前でちゃんと死んでゐてやるから。毛皮も胃袋もやってしまふから。」     『なめとこ山の熊』

熊は丸二年後,約束通り小十郎の家の前に血を吐いて死んでいたのだった。

約束は果たされた。

栗駒笊森5.26 024-2s

 そして1月のある日。小十郎は熊に襲われて死んでしまう。『なめとこ山の熊』のラストはこう結ばれます。
とにかくそれから三日目の晩だった。まるで氷の玉のやうな月がそらにかかってゐた。雪は青白く明るく水は燐光をあげた。すばるや参の星が緑や橙にちらちらして呼吸をするやうに見えた。

 その栗の木と白い雪の峯々にかこまれた山の上の平らに黒い大きなものがたくさん環になって集って各々黒い影を置き回々教徒の祈るときのやうにじっと雪にひれふしたまゝいつまでもいつまでも動かなかった。そしてその雪と月のあかりで見るといちばん高いとこに小十郎の死骸が半分座ったやうになって置かれてゐた。

 思ひなしかその死んで凍えてしまった小十郎の顔はまるで生きてるときのやうに冴え冴えして何か笑ってゐるやうにさへ見えたのだ。ほんたうにそれらの大きな黒いものは参の星が天のまん中に来てももっと西へ傾いてもぢっと化石したやうにうごかなかった。
 
栗駒笊森5.26 501-2s

 礼を尽くしてきた小十郎の前に,約束通りに熊は自ら死んで供犠(サクリファイス)として捧げられた。
 そして今度は,ついに小十郎が熊の前に供犠(サクリファイス)として捧げられた。熊たちは小十郎を真ん中にして車座となり,小十郎を礼を尽くして見送った。

栗駒笊森5.26-2 212-2s

 私は今まで宮澤賢治の考え方を「汎神論」という形で言ってきました。
 山に,風に,降り注ぐ日の光に,虫にも魂が宿り,生きとし生きるものすべてに「命」という次元で通い合う考えこそ,すべてのものに神宿るという汎神論である。上に掲げた「なめとこ山の熊」も全くその視点で解釈しても違和感はないでしょう。
 でも,そうだろうかと私はいつも思っていたのです。そんな言葉づらでまとめたからと言って何がわかったというのだろうか。宮澤賢治の言いたかったことは汎神論という,そんな簡単な言葉でまとめられたものだったのかと,いつも自分に反問していました。
ブナの力2
 それに対する自分なりの答えは,「なめとこ山の熊」の中に出てくる供犠(サクリファイス)という考え方です。どうして供犠として捧げるものが必要だったのでしょう。そこには,口だけの約束や上っ面だけのものでは解決されるはずもない自然に対する高い倫理性が必要だったのです。

 熊は小十郎に約束通りに自ら死んで供犠として捧げられました。死は,骸(むくろ)を残し,人やすべての他の生き物に食べ物として提供され,霊は神の世界に慎ましやかに,そして厳格な規則に則って送り返される。これが送りの儀式でしょう。死をきちんと見守り,礼儀を尽くして神の御許に霊を返してあげる。霊は喜び,神もまたそのことを喜び,次の年も豊富な自然の恵みを与えてくださる。
 そして,小十郎の死は,一番近くにいる熊たちが礼を尽くしてまた神に送る。その厳粛な儀式が車座なのです。この儀式に嘘は許されません。命のやりとりという厳しい状況での嘘や上っ面な約束はやがて自然の負のエネルギーとして人間にも反ってくることになるからです。昔の人々はかたくなにこの自然のルールを守ってきました。
 この高い倫理性が古代から伝えられてきて,汎神論という言葉にまとめられているのです。

 賢治は,自然の中にあるこの高い倫理性に関わって「なめとこ山の熊」をまとめていたと思われます。

 写真は4枚目まで栗駒山。5枚目のブナの写真は朝日連峰。

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コメント

Re: タイトルなし

考えてみたんです。なぜ祭りや儀式に生け贄(供犠)が必要なのかって。儀式の厳格さって誰に対して必要なのかって。どちらも人間が作り出してはいますが,神に対する「最高の」礼儀やおもてなしがそのような形になったわけです。その神が生き物の仮面をかぶって,この世に現れ出ているという考え方がポイントのようです。これについてはまた書きます。

なめとこ山の熊…深いですね
生き物には、なぜ,死が訪れるのか
当たり前のことが、普段は忘れています。
忘れようとしているだけなのかも…
死に向かい合うのは、あまりに怖いから。

最後のブナの巨樹の生命力に、安心させてもらった気がします。

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