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宮沢賢治らしさ-早池峰の幻覚-

下弦の夜 027-2gs
農家の夜

佐藤隆房「宮沢賢治-素顔のわが友-」を読んでいますと,36番目の話に「正覚と幻覚」という章があり,興味深い話が語られます。
宮沢賢治: 素顔のわが友 最新版宮沢賢治: 素顔のわが友 最新版
(2012/03/09)
佐藤 隆房

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登りの好きな賢治でしたが,早池峰にも登っています。その早池峰の登口が岳部落から沢沿いに進んだ「河原坊」です。もともとこの早池峰は信仰ので白装束を来た人が登ってきます。

・・・この河原の坊には黎明時にしんしんとした読経の声が聞こえるといううわさがありました。ここには天台宗の寺があったと言います。先年(1924)の登の折りでした。そこの大きな石に腰をかけて休んでいたら,の方から手に錫杖突き鳴らし,眉毛の長く白い,見るからにすがすがしい高僧が降りてきました。

ここで賢治自身のその時の詩を読んでみましょう。長い詩ですが,そのまま載せます。
     河原坊(脚の黎明)
                  一九二五、八、一一、   

   わたくしは水音から洗はれながら
   この伏流の巨きな大理石の転石に寝やう
   それはつめたい卓子だ
   じつにつめたく斜面になって稜もある
   ほう、月が象嵌されてゐる
   せいせい水を吸ひあげる
   楢やいたやの梢の上に
   匂やかな黄金の円蓋を被って
   しづかに白い下弦の月がかかってゐる
   空がまた何とふしぎな色だらう
   それは薄明の銀の素質と
   夜の経紙の鼠いろとの複合だ
   さうさう
   わたくしはこんな斜面になってゐない
   も少し楽なねどこをさがし出さう
   あるけば山の石原の昧爽
   こゝに平らな石がある
   平らだけれどもここからは
   月のきれいな円光が
   楢の梢にかくされる
   わたくしはまた空気の中を泳いで
   このもとの白いねどこへ漂着する
   月のまはりの黄の円光がうすれて行く
   雲がそいつを耗らすのだ
   いま鉛いろに錆びて
   月さへ遂に消えて行く
    ……真珠が曇り蛋白石が死ぬやうに……
   寒さとねむさ
   もう月はたゞの砕けた貝ぼたんだ
   さあ ねむらうねむらう
    ……めさめることもあらうし
      そのまゝ死ぬこともあらう……
   誰かまはりをあるいてゐるな
   誰かまはりをごくひっそりとあるいてゐるな
   みそさざい
   みそさざい
   ぱりぱり鳴らす
   石の冷たさ
   石ではなくて二月の風だ
    ……半分冷えれば半分からだがみいらになる……
   誰か来たな
    ……半分冷えれば半分からだがみいらになる……
    ……半分冷えれば半分からだがめくらになる……
    ……半分冷えれば半分からだがめくらになる……
    そこの黒い転石の上に
    うす赭いころもをつけて
    裸脚四つをそろへて立つひと
    なぜ上半身がわたくしの眼に見えないのか
    まるで半分雲をかぶった鶏頭山のやうだ

    ……あすこは黒い転石で
      みんなで石をつむ場所だ……
   向ふはだんだん崖になる
   あしおとがいま峯の方からおりてくる
   ゆふべ途中の林のなかで
   たびたび聞いたあの透明な足音だ

   ……わたくしはもう仕方ない
     誰が来やうに
     こゝでかう肱を折りまげて
     睡ってゐるより仕方ない
     だいいちどうにも起きられない……           :
          :
          :
          :
        叫んでゐるな
      (南無阿弥陀仏)
      (南無阿弥陀仏)
      (南無阿弥陀仏)
    何といふふしぎな念仏のしやうだ
    まるで突貫するやうだ        :
        :
        :
        :
    もうわたくしを過ぎてゐる
    あゝ見える
    二人のはだしの逞ましい若い坊さんだ
    黒の衣の袖を扛げ
    黄金で唐草模様をつけた
    神輿を一本の棒にぶらさげて
    川下の方へかるがるかついで行く
    誰かを送った帰りだな
    声が山谷にこだまして
   いまや私はやっと自由になって
   眼をひらく

   こゝは河原の坊だけれども
   曾ってはこゝに棲んでゐた坊さんは
   真言か天台かわからない
   とにかく昔は谷がも少しこっちへ寄って
   あゝいふ崖もあったのだらう
   鳥がしきりに啼いてゐる
   もう登らう

この日付の空を再現してみましょう。
河原坊
1925.8.11日の出一時間前の空(賢治はこの空と月を見ていたんです)

月は月齢20です。下弦の月ですね。
さっきの賢治の幻覚の話から,この詩を読むとよくわかりますね。実際に腰をかけた大きな石,下弦の月,金縛りに遭ったのでしょうか,動かない身体で読経の声とお坊さんの姿を見るわけです。

星 043-s
実はこの読経の声の後に現れる高僧の幻覚はただの幻覚ではないのです。この章のタイトルは「正覚と幻覚」です。この早池峰の幻覚の前に,妹トシの死んで間もない頃,教え子の照井謹二郞にこう言っているのです。
いつも妹を思って休む前には必ず読経し,ずっと仏壇のそばに寝起きしている。この間も枕辺にとし子の姿がありありと現れたので,すぐ起きてまたお経を上げていると見えなくなった。次の晩もやはり姿が見え,二晩であとは見えなくなった。

栗駒 559-2s
ブナの森に居て

興味深いことには,どちらも読経の声の後に姿が現れるということなのです。これは正覚なのか幻覚なのか。とにかくも賢治らしい幻覚です。

さらに賢治はこう言って結んでいます。
「人間というのは人によるかも知れないが,死んでからまた別の姿になって,どこかに生を受けるものらしい。」
唐突に出てくるこの言葉は何を確信して言っているのでしょうか。幻覚といい,この結びといい,賢治らしいなあと私には腑に落ちるのでした。

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