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農民の力-矢後利明-

齋善屋敷 s
箟岳から平野部を望む

ここは宮城県北部箟岳山頂です。
ここから道を涌谷の方に進みますと花立墓地があります。
この墓地の片隅に看板がついた一基の墓があります。
齋善屋敷 086s
矢後利明君ここに眠る

墓碑銘にはこう書いてあります。
本名利一1902-1932は,静岡県小山町に生まれ大正末年宮城県に来たり日農県連書記長として農民運動に献身し昭和7年遂に斃る。若き優秀なる闘士として東北農民の解放につくしたその功を永く伝えるため氏の遺志により前谷地事件ゆかりの地を選びこの碑を築く。
昭和47年11月  宮城県農民運動史刊行会


昭和3年の正月を迎えた。正月は昨年の収穫した小作米を収める月だ。しかし,地主の齋藤善右衛門は一方的に高橋淳と菅原嘉之栄の土地取り上げの決定を一方的に告げた。こと小作料に関しては容赦なかった。小作人の高橋淳と菅原嘉之栄は憤慨した。二人は日農豊里支部に相談した。日農県連は3月6日にこのことを広く知らせるために演説会を開くことにした。演説会には農民200名ほど,警官も15.6名来ていた。

翌日の河北新報はこう伝えた。
平和な村として一般からうらやまれていた前谷地村にも近頃小作争議発生の兆し有り,村当局は勿論,有志階級は寝耳に水と大いに狼狽しているが,同時に東北有数の豪農齋善家(齋藤善右衛門)などもあるので,丁度水がめから煙が出たように騒ぎ回っている

齋善屋敷 106-2s
矢後利明氏の説明の看板

絶対に避けることはできない巨大地主と小作人との戦いである。
大正15年齋藤善右衛門が所有していた土地は1500町歩,小作戸数は2386戸である。日露戦争後には樺太の海馬島も所有していた。
一方地主と戦う農民戦線の方も条件が整い始めていた。日農宮城県の書記長でもある26歳の働き盛りの矢後利明が齋善家との戦いの前線に立った。
「馬あるものは馬に乗り,鍬鋤(くわすき)手にし,弁当持参で前谷地に参集せよ。目的は齋善家にある。」

昭和3年3月31日450名以上が北から南から東から西から前谷地に集まった。
そして農民歌を歌いながら高橋と菅原の田の田打ちを始めた。

成人の日 127s
まもなく石巻警察署広渕分署署長国井警部補がやってきた。
「矢後さん,居るかやあ。円満解決のために話し合うべ。」と高橋の内庭で話し合いを進めていたときだった。

突然2台のトラックが突進してきた。トラックに満載されていたのは石巻署の警官総動員だった。
「矢後を検束,幹部を検束。」
警官は次々抜剣して飛びかかった。矢後以下3名はトラックにねじこまれた。しかし,けたたましてアクセルを踏んだトラックは押し倒された土塀に引っかかって止まった。

「矢後を奪還しろ」「幹部を警察に渡すな。」
警官隊は数百人の農民に囲まれじりじりと後ずさりを始めた。固い土のかたまりが黒い嵐になって警官隊に降り注いだ。検束を命令した三浦署長が倒れた。制服のズボンが裂け,サーベルはむしり取られ帽子がはぎ取られ,肩章ははがし取られた。

その場で署長は矢後にこう言った。
「土地取り上げの件はわしが齋藤善右衛門に交渉して撤回させる。責任をもって。矢後君も,この集団を静粛に解散させてくれ。」
午後3時半までに結果を出すことになった。やっと日没前に「一 今後小作地は永久に立付けること,二 滞納した小作料は三か年賦で支払うこと」と齋藤善右衛門に要求を飲ませた。
齋善屋敷 149s
現在の齋善屋敷(東日本震災で損傷して現在修理中)

逮捕者を出さないという約束だったが,翌日4月1日矢後利明は公務執行妨害暴行罪で検挙された。矢後以下7名が起訴され,控訴したが全員有罪が確定した。矢後は懲役6か月。懲役中に矢後は結核に斃れた。
そして昭和7年(1932)年30歳の若さでこの世を去った。

彼は最後にこう言った。
「齋善家を見渡せる高台にオレを埋めてくれ。オレが齋善家を見張り続ける。」
彼は箟岳山からいまだに広大な田畑を見張り続けている。


参考にした本
宮城県農民運動史 (1968年)宮城県農民運動史 (1968年)
(1968)
中村 吉治

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物語宮城県農民運動史 (中) (えみし双書 (2))物語宮城県農民運動史 (中) (えみし双書 (2))
(1985)
斎藤 芳郎

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