FC2ブログ

「セラピスト」最相葉月

栗駒星 061-2gs
栗駒山で見上げる夏の大三角

最相葉月の「セラピスト」をおもしろく読んでいる。
話しても理解してはもらえないだろう。そもそも私の話など聞いてもらえないだろう。そんな諦念はどうも子どもの頃からあったような気がする。それは私がそのような家に育ったということなのだろうか。あの頃は親も若かった。経済的にも苦労していた。私はそんなふうに親を理解し,自分ががまんすればそれでいいと考えてきた。家族にも他人にも自分の悩みを打ち明けたことはほとんどなく,自分自身で解決してきたという思いがある。内面を言葉にしない。いや,言葉にできない。私のそういう姿勢が,逆に家族や友人にどんな思いをさせ,どんな影響を与えてきたかは想像したこともない。

そんな彼女が中井久夫の「風景構成法」を終えた後,こう記している。
絵を鑑賞しながらのやりとりでは,・・・自分の中の苦い部分と直面することとなった。その苦い部分も,まだ半分以上は隠したままだという。中井には何かが見えているのかもしれないが,それをこじ開けようとはしない。半分以上隠したまま生きることしかできないでいた自分を知る,ということなのだろうか。自分はそうすることしかできないと開き直るのではなく,そうすることしかできなかった自分がこれまでどう生きてきたか,他者にどんな影響を与えてきたかと考える。すると,あのときのつらさや息苦しさはそのためだったのかと,次々と思い当たるふしがあることに気がついた。

そして彼女はこう言葉を結ぶ。

「中井の家を訪れる前とはまったく違う景色が目の前に広がるような,不思議な開放感がわき上がっていた。」

この本を読むに及んで,著者がいい悪いに関係なく現在「もってしまっている自分」に対しての違和感をどう自分の中に織り込もうとしているのかという問いに答えるために「絶対音感」も「セラピスト」も必要だったんだと分かります。
そしてその問いに向かう題材が「絶対音感」だつたり,今回の「セラピスト」だったのでしょう。どちらもその調べの精密さゆえに名作です。その調べの精密さは彼女の問いへの正直さであり,その問いに答えを出そうとする真摯さでしょう。

春の湿原 512-2gs
栗駒山で春を歌う


第5章の「ボーン・セラピスト」の中康裕の病院勤務時代の逸話もおもしろかった。
看護師達を困らせていた患者達が中の絵画療法と面接を通じて,ネガティブな自分は仮の姿だと得心し,これからは本当の自分を生きていいのだと気付くことで症状が劇的に改善され,退院していったというのだ。逆に褒められたいと思う患者達の絵は自己満足に終わり,自分をさらけ出したり自分と向かい合ったり,自分を再構築するという考えは持ちにくかったため症状は改善されなかったのだという。


昔に思想の本を読みながら私自身,フロイトからの流れでレヴィ・ストロース等の文化人類学に行ったり,フッサールに行ったり,ラカンに行ったり,ミシェル・フーコーに行ったりしていた時期があった。多分,世界というものを解釈したいと考えていたのだろうと思う。それらのちりぢりになった破片がこの「セラピスト」という本を読む中で温かな追憶のように再度揺らめ始めたように感じた。それはそれでよかったことなのだ。

セラピストセラピスト
(2014/01/31)
最相 葉月

商品詳細を見る



にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ
にほんブログ村
関連記事