FC2ブログ

栗駒山-お助け小屋-

今日は昔の山小屋「お助け小屋」についてお話しします。
山好きな方は江戸時代の山小屋はどんなだろうとお思いになるかもしれません。私自身も栗駒山に通うようになって初めて昔の山の文化に触れて興味をもつようになったのです。

秋田日記コース図s
栗駒山での羽後岐街道コース図(田代お助け小屋はこのコース図の一番左のところです)

慶応三年二月九日と「陸奥紀行」にあります。ということは今の暦に直せば1867年3月13日のことです。随分雪が深かったと思われます。
秋田で漆器屋を営む佐賀恵屋恒蔵が栗駒越えをして,宮城県岩ヶ崎(現宮城県栗原市岩ヶ崎)に行く記録が「陸奥紀行」として残っています。
その佐賀恒蔵が秋田県小安温泉を午前10時に出て,小安温泉から一里の大湯(現大湯温泉)を経て,田代沼近くの三本杉の山神様のところにある田代お助け小屋に着きました。

栗駒秋田側 444s
田代お助け小屋の現在の場所(田代御助小屋跡という石標が立っている)
五間に二間ばかりの小屋であったと佐賀恵屋恒蔵が記しています。

小屋守は老母一人と十七・八才ごろの男・女二人居った。
この小屋は誰様が来ても風呂敷の荷を置いたところがその人の居場所と決まっており,勝手に場所替えは出来ないという決まりになっていた。
後から来た人は段々小屋の奥の方になり,長い炉の奥に火をたくのである。従って小屋の長さだけ炉が長くなっている。その炉の両側は板張りになっており,敷物は下場莚(むしろ)一枚だけである。
木賃は相談して払うのである。


栗駒秋田側 150s
田代沼

晩方になって三梨の多郎右衛門殿が荷物をもって十四・五名で入室してきた。合わせて五十人ばかりになった。銘々で持参した米を鍋を借りて炊き食べた。飯椀もあまりなく四・五人分もあったろうか。あとは縁の欠けた椀二・三人分位で村里だったら捨ててしまうと思われる品ばかりだった。
箸もおかずも特別にないのでそれぞれが持参してきたもので食べていた。

栗駒秋田側 260-2s
小屋があっただろう後ろにある湿原の景色

小屋の中は五十人ばかりの人々が背中あぶりも出来ないで着たままの姿で帯も解かずに持ってきた布切をかけ荷物を枕に寝るしかなかった。一晩中焚火をしているので煙が多いため目が痛く下場莚の上に寝ると体も痛くなって眠ることができなかった。

栗駒秋田側 093s
花山峠から見たトチの花と栗駒山

夜中に大風の音がして,朝見ると雪が七・八尺となっていた。


昔の山越えはやはり命がけだった。
以前に天保八年の熊谷新右衛門の「秋田日記」を載せたが,(その記事は こちら )
栗駒山中にあった「中治の小屋」あたりでも吹雪や大雪での行き倒れの人が間々見られたほどであった。


にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ
にほんブログ村
関連記事

トラックバック

ケノーベルからリンクのご案内(2014/06/04 08:50)

栗原市エージェント:貴殿の記事ダイジェストをGoogle Earth(TM)とGoogle Map(TM)のエージェントに掲載いたしました。訪問をお待ちしています。