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会員章67番の柳田國男と日本山岳会

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霧かかる湿原(栗駒山)

今日は柳田國男と日本山岳会との関係を探ってみます。

話は,明治42年(1905)5月16日のところから始まります。
新しくできた日本山岳会の定期大会で,柳田國男が「山民の生活」という演題で講演しました。

そうか,と私はふと考えました。
「明治42年だと31歳になったばかりの柳田國男ってそんなに有名になっていたんだろうか。」

第一作の「後狩詞記」が出版されたのは確かにこの年の3月15日50部だけの自費出版だったし,「遠野物語」はまだ出版されていません。
専門雑誌にはいろいろ書いてはいましたが,「山民の生活」という彼のライフワークの端緒をなす話題で,創立したばかりの日本山岳会の大会での講演とは,異例の抜擢ではなかったかと思いました。というのも柳田自身が山に熱中していたわけでもないのですから。

そこで柳田國男と日本山岳会との調べてみたのです。
柳田國男は自分から進んで日本山岳会に入会していたのでしょうか。それとも誰かの推薦で入会することになったのでしょうか。

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今年もコマクサはそろそろ咲いているはずです。一昨年の秋田駒ヶ岳にて。

当時の柳田國男は農商務省に勤めて,そして割合すぐに法制参事官になっていました。全国に出張したりと忙しい日々を過ごしていました。ちなみに名作「山の人生」の冒頭を飾る「一 山に埋もれたる人生あること」の二人の子供を殺した炭焼きの新四郎の事件の特赦を認めたのは法制参事官当時の柳田國男自身だったようです。

探していくと「柳田國男集」の月報34に武田久吉の名前をみつけました。
「明治38年10月14日」と,武田久吉は書いています。
「日本山岳会が正式に誕生したのは。柳田先生とは日本山岳会が誕生して以来のお付き合いということになる。」
その武田久吉の「柳田先生の思い出」によれば,柳田國男の入会は明治39年の4月5日の「山岳」で確認されていて,会員章67番であったという。
この日本山岳会設立の様子を,近藤信行が日本山岳会の会報2005年8月号に「日本山岳会草創のころ」と題して次のように書いています。
そのほか、文学・美術関係者をはじめ多彩な顔ぶれがあつまって、会員は初年度において四百名をかぞえた。『山岳』第二年第一号(明治40年3月)の付録として出された会員名簿を見ると、四百十八名の記載があって、学者や山好きの青年にまじって多くの文学関係者、ジャーナリストも名をつらねている。小山内薫、柳田国男、前田曙山、畔柳芥舟、山崎紫紅、滝沢秋暁 、真下飛泉、伊良子清白、田山花袋、長谷川天渓、伊藤銀月、河井酔茗、正岡芸陽、久保天隨、島崎藤村、神津猛らの名がある。

烏水は「文学会にあらずして、かくの如く、多くの詩人文士を網羅した会の、他にあるを知らず、是れ本会の栄とすることなり」と書いた。


そして年1回の定期大会が行われて,明治42年の5月16日の第2回大会時に柳田國男の記念講演の運びとなるのです。しかし,柳田國男が自分から進んで日本山岳会に入ったのか,推薦された会員だったのかは分からなかった。

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5月のブナ林へ

映画でも有名になった新田次郎の「剱岳 点の記」は明治39年の話である。日本山岳会を立ち上げた小島烏水と測量官・柴崎芳太郎との剱岳登頂の先陣争いを繰り広げる話ですが,何ともおしゃれな装いの小島烏水が登場する。この小島烏水と柳田國男との関係はどうだったのだろうか。年譜を読んでみた。

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ブナの番人(栗駒山)

柳田國男の家にはたくさんの人が集まってきていたのだが,婿養子の國男のことを思い,家の人も来た人をとても大切にして歓待していたそうだ。文学好き,民俗学関係という人たちが文学会,土曜会,文人清和会,雑談会と様々だった。後に龍土軒というレストランを会場にしたので「龍土会」と言われたらしい。このメンバーを辿っていくと,ありました。

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ブナの展葉

明治35年(1902)1月12日。柳田が28歳の時の快楽亭(龍土軒の前身)で文学会を開きました。
このときのメンバーが一番付き合いの古い田山花袋,小栗風葉,蒲原有明,柳川春葉,生田葵山,小島烏水出席とあるのです。
つまり日本山岳会設立の三年前にもう柳田と小島烏水は知り合いの仲でした。

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若葉の路

柳田國男自身もどこかで小島烏水のことを「足は達者だし,書くのも達者」と評していました。

もう一度『山岳』第二年第一号(明治40年3月)の付録として出された会員名簿を見ると、四百十八名の記載があって、
学者や山好きの青年にまじって多くの文学関係者、ジャーナリストも名をつらねている。小山内薫、柳田国男、前田曙山、畔柳芥舟、山崎紫紅、滝沢秋暁 、真下飛泉、伊良子清白、田山花袋、長谷川天渓、伊藤銀月、河井酔茗、正岡芸陽、久保天隨、島崎藤村、神津猛らの名がある。

太字にした名前は柳田國男の会に来ていた人でもありました。

このことにより,柳田國男と小島烏水は日本山岳会創立前からの仲で当然喜んで入会しただろうし,講演依頼を多分受けて快諾したことでしょう。

この講演の題目「山民の生活」は依頼されたのでしょうか,柳田自身が決めたのでしょうか。
多分話はすぐについたでしょう。
講演をした二日後,読売新聞に柳田の「山民の生活」が談話という形で載ります。
そしてこの論文は明治42年その年の11月に,日本山岳会発行の機関誌「山岳」第四巻三号に載ります。内容は焼き畑農業の実際ということでしょうか。

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夏空晴れて

この明治42年の前の年の11月4日のことです。
運命の出逢いがありました。

柳田國男の家に久しぶりに水野葉舟が尋ねてきました。そしてその水野の後ろには緊張した面持ちのメガネをかけた青年が立っていました。佐々木喜善でした。
「遠野物語」が世に出る二年前のことでした。



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