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國木田独歩「武蔵野」をめぐって

3月12日 010-2s
冬の光

やっと今日は休みです。

ちょっと間をおいてしまいましたが,休みの日にはいつも本のことを書いていたので今日も,と思っています。しかし,どんな話になるのか分かりません。

岩波書店のパンフ「図書」5月号に赤坂憲雄が「武蔵野の挽歌から始まる」と題して連載を始めました。彼,赤坂は震災以来自分の思想の組み立て直しを自分の復興ととらえ,原点となった柳田国男を「発生史的に読み直す」ことを課して,その記録を『柳田国男を読む』にまとめました。この本は先日も紹介しました。
さてその赤坂が「武蔵野の挽歌から始まる」を書き始め,東北から離れ,自分の復興の第二章をスタートさせたのだなと思いました。その場所は,国木田独歩の書いた「武蔵野」。その場所からです。明治31年(1898年)に書かれた『武蔵野』は,縦横に張り巡らされた林の中の道を心の赴くままに選び歩くことを独歩は勧めています。私はこの本を中学時代に読んだのですが,とても静かな気持ちの良い記憶として残っています。

今回また「武蔵野」を読み直してみたら,国木田独歩とその周辺の作家,田花袋,島崎藤村,柳田国男といった明治時代の文学サロン的な集まりのおもしろさを思い出しました。現在,作家の全集はいろいろとそろっていますが,その時代の横のつながりはどうだったのかと明治の時代の空気を感じてみたいと思います。

栗駒 559-2s
ブナの実のベット

国木田独歩の「武蔵野」は明治31年1~2月に発表されていますが,その二年前,明治29年11月12日の独歩の日記に「新知の人,昨今両日の中に三人を得たり。留岡孝助(幸助)氏なり。他の二人は田花袋,太田玉茗なり。」とあります。
 この翌年には国木田独歩はもう花袋と日光で泊まり込み,5月13日,デビュー作の「源叔父」を脱稿しています。田花袋と柳田国男と出会った独歩はいよいよ人間的にも作家としても前向きになっていきました。彼の日記にはこの交遊が生き生きと記されています。人生の出会いは本当に人の生き方を大きく変えるものだとつくづく分かります。
皮肉なことにこの後,あれほどに劇的に結婚した信子さんと離縁し,どん底の中で武蔵野に住むことになり,名作「武蔵野」が出来上がることは独歩自身,予想だにしなかったことでしょう。

一方,田花袋の方から国木田独歩を見ると,無二の親友だったということがよく分かります。花袋の「東京の三十年」の中に「龍土会」という随筆があり,その中で國木田独歩との出会いが「恐らく蒲原有明君か,でなければ平塚篤君か,この二人の中であると思う。そして二人が國木田君を其処(龍土軒)に引張っていった。」そしてこの会で独歩は中心になっていったのでした。この龍土会はもともと柳田の家に集まっていた作家達が場所を変え,趣向を変えて続いていたサロンです。柳田国男,田花袋,島崎藤村,国木田独歩,小栗風葉,蒲原有明,柳川春葉,生田葵,川上眉山,小島烏水,小山内薫,水野葉舟とすごいメンバーばかりです。そして最後に書いた水野葉舟が明治41年「遠野物語」の佐々木喜善を連れてくるのです。

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山王の桜眠る

さて,「武蔵野」の中にツルゲーネフの「あひびき」の冒頭と末尾が引用されます。今回もう一度「武蔵野」を読み終えてツルゲーネフの「あひびき」も読み直してみました。もちろん二葉亭四迷の訳でです。名訳だと思います。この「あひびき」は「武蔵野」ができる10年前に訳されたものです。ワーズワースが好きだったクリスチャンの國木田にとって自然主義のツルゲーネフのこの作品は自然の教科書にもなる描写だったでしょう。この時期に遠く離れた岩手で宮沢賢治が同じく自然を独自に描写していたのはそういう時代だったからでしょうか。「あひびき」の冒頭をそのまま引用してみます。
自分は座して、四顧して、そして耳を傾けていた。木の葉が頭上でかすかに戦(そよ)いだが、その音を聞いたばかりでも季節は知られた。それは春先する、おもしろそうな、笑うようなさざめきでもなく、夏のゆるやかなそよぎでもなく、永たらしい話し声でもなく、また末の秋のおどおどした、うそさぶそうなお饒舌(しゃべ)りでもなかったが、ただようやく聞取れるか聞取れぬほどのしめやかな私語(ささやき)の声であった。そよ吹く風は忍ぶように木末(こずえ)を伝ッた、照ると曇るとで雨にじめつく林の中のようすが間断なく移り変わッた、あるいはそこにありとある物すべて一時に微笑したように、隈(くま)なくあかみわたッて、さのみ繁(しげ)くもない樺(かば)のほそぼそとした幹(みき)は思いがけずも白絹めく、やさしい光沢(こうたく)を帯(お)び、地上に散り布(し)いた、細かな落ち葉はにわかに日に映じてまばゆきまでに金色を放ち、頭をかきむしッたような『パアポロトニク』(蕨(わらび)の類(たぐ)い)のみごとな茎(くき)、しかも熟(つ)えすぎた葡萄(ぶどう)めく色を帯びたのが、際限もなくもつれからみつして目前に透かして見られた。
とにかく美しい描写ですね。國木田独歩が描写するよりもそのまま引用した方がよいと思うのは当然です。

花袋も柳田も独歩に文筆業に専念するようにと言いましたが,独歩は編集の仕事をしたりして生活費を賄おうとしました。結果的には遠回りが彼の作品を遅らせるどころか,死によって途切れることになってしまったことは残念この上ないことです。

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林の中に続く路

花袋の「獨歩の死」から独歩の最期を見てみましょう。明治40年ですから独歩は37歳になります。
國木田君は,明治四十二年(記憶違いかも)の二月から,相模の茅ヶ崎の南湖院にその病を養っていた。折角世にその才を認められたかれ,新機運の唯中に立っているかれ,『独歩集』『運命』が版に版をかさねるようになったかれ,そのかれがこうして不治の病にかかろうとは。

明治四十一年六月二十三日午後8時40分死去。


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