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新・遠野物語-佐々木喜善の神職-

遠野大晦日 321s

遠野の町から北東に抜ける340号線を行くと,有名なカッパ淵の案内が出てきます。その手前にキツネの関所があります。

「遠野物語」は柳田国男が明治43年(1910)出版した本ですが,その話を語ったのが佐々木喜善です。この時喜善は25歳でした。
佐々木喜善は,明治19年(1886)の生まれです。かの石川啄木と同い年です。そして宮沢賢治は10歳年下です。啄木も賢治も有名ですが,喜善は意外と知られていないのかもしれません。佐々木喜善が上京して早稲田に通っていた頃,住んでいた小石川の下宿に水野葉舟がいて二人は知り合ったのでした。この水野葉舟という人は喜善よりも3歳年上で,同じ早稲田に通い,柳田国男の主催する文学会「龍土会」に通っていたのでした。佐々木喜善の話のおもしろさに気づいていた水野が喜善を柳田の家に連れて行って柳田に引き合わせたのです。それが明治41年の11月のことでした。その2年後「遠野物語」が出版されました。

遠野大晦日 291s
初めてキツネの関所を訪ねたわたしは裏山から入ろうとして「倭文(ひどり)神社」に行き当たりました。
折角ですからとお参りを済ませると左手の廊下にある歴代の神主さんの写真に気づきました。そしてそこに佐々木喜善の写真があることに気づきました。
昭和2年から昭和8年まで佐々木喜善は,この倭文(ひどり)神社の神官だったのです。

遠野大晦日 318s
倭文(ひどり)神社

「あれ」とわたしは思いました。
昭和2年というと喜善は確かに村長はしていましたが,少なくても遠野から身も心も離れようとしていた時代ではなかったのかなと思ったのです。実は喜善にとって大きな転換期を迎えていた時が昭和2年で,身を立てようと神職の資格を8/9から8/27間,盛岡の神職講習会に出て取ったのでした。

遠野大晦日 303s
きれいな倭文(ひどり)神社です。字がうまくなる願いのお習字も奉納されていました。

昭和3年2月11日付けの柳田国男が佐々木喜善に宛てた手紙には喜善が上京して神職によって身を立てたいという希望があったことが伺えることに対する返事が書かれています。
神職の練習に東京に来る方がよいという意見ハ誤りです。神職ハほん当の収入は少しのもので其中にお賽銭の多いものが全国十社内外あるのみでそんな地位は縁故のない者には明いていません。又もし閑だったら子どもの教育ハできないでしょう。

明らかに喜善は上京の可能性を神職という職業で考えていたのです。
この柳田の手紙を読み,2/13喜善は仙台に移ることを決意して,妻マツノに相談します。ラジオ放送の仕事もあり,仙台に通うことがおおかったのです。また前年の昭和元年には長女若の治療と共に喜善自身も腹水がたまる治療を仙台の病院で受けていたので仙台でということになったのでしょう。

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倭文(ひどり)神社にあった佐々木喜善が昭和2年から昭和8年まで神官として在職していたという事実は確かでしょうが,実際は神社の宮司としてきちんとした仕事ができないでいたのではないかと思います。少し心が痛む思いがします。
結局昭和4年明けてすぐ仙台で借家探しを始め,川内大工町73に引っ越したのは昭和4年の立春2/4のことでした。喜善のお母さんも一緒に引っ越したわけですが,お母さんにとっても住み慣れた土地を離れることは辛かったと思われます。
3/27遠野に帰り,村長の辞表を出し受理させたのでした。
そして倭文(ひどり)神社の神官を免ぜられたのは喜善が死んでしまう昭和8年ということになります。


倭文(ひどり)神社 五代神官 佐々木喜善 土淵町出身 奉職期間 昭和2年-昭和8年


この倭文(ひどり)神社の佐々木喜善の短い紹介の中に,彼の人生や家族の思い,子供の病気,親としての務めをしみじみと味わいながら遠野の町を後にしたのでした。


佐々木喜善が仙台に引っ越した場所を訪ねた記事は こちら 。


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