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新・遠野物語-神隠し その一-

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失われた注文

遠野物語を読むと,何とも空恐ろしい話が神隠しの話です。
六 遠野郷にては豪農のことを今でも長者といふ。青笹村大字糠前(ぬかのまえ)の長者の娘、ふと物に取り隠されて年久しくなりしに、同じ村の何某といふ猟師、ある日山に入りて一人の女に遭ふ。恐ろしくなりてこれを撃たんとせしに、何をぢではないか、ぶつなといふ。驚きてよく見れば、かの長者がまな娘なり。何ゆゑこんな処にはゐるぞと問へば、ある物に取られて今はその妻となれり。子もあまた生みたれど、すべて夫が食ひ尽くして一人このごとく在り。おのれはこの地に一生涯を送ることなるべし。人にも言ふな。御身も危ふければ疾く(とく)帰れといふままに、その在所をも問い明らめずして逃げ帰れりといふ。(糠前は糠の森の前にある村なり。糠の森は諸国の糠塚と同じ。遠野郷にも糠森糠塚多くあり)
                                   「遠野物語6」
七 上郷村の民家の娘、栗を拾ひに山に入りたるまま帰り来らず。家の者は死したらるならんと思ひ、女のしたる枕を形代として葬式を執行い、さてニ三年を過ぎたり。然るに其村の者猟をして五葉山の腰のあたりに入りしに、大なる岩の〇ひかかりて岩窟のやうになれる所にて、図らず此女に逢ひたり。互に打驚き、如何にしてかかる山には居るかと問へば、女の曰く、山に入りて恐ろしき人にさらわれ、こんな所に来たるなり。遁げて帰らんと思へど些かの隙も無しとのことなり。其人は如何なる人かと問ふに、自分には並の人間と見ゆれど、ただ丈極めて高く眼の色少し凄しと思はる。子供も幾人か生みたれど、我に似ざれば我子には非ずと云ひて食ふにや殺すにや、皆何れへか持去りてしまふ也と云ふ。まことに我々と同じ人間かと押し返して問へば、衣類なども世の常なれど、ただ眼の色少しちがえり。一市間に一度か二度、同じやうなる人四五人集り来て、何事か話を為し、やがて何方へか出て行くなり。食物など外より持ち来るを見れば町へも出ることならん。かく言ふ中にも今にそこへ帰って来るかも知れずと云ふ故猟師も恐ろしくなりて帰りたりと云へり。二十年ばかりも以前のことかと思われる。
                                   「遠野物語7」

八 黄昏に女や子供の家の外に出ている者はよく神隠しにあふことは他の国々と同じ。松崎村の寒戸といふ所の民家にて、若き娘梨の樹の下に草履を脱ぎおきたるまま行方を知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、ある日親類知音の人々その家に集まりてありし処へ、きはめて老いさらぼひてその女帰り来たれり。いかにして帰ってきたかと問えば、人々に逢いたかりしゆゑ帰りしなり。さらばまた行かんとて、ふたたび跡を留めず行き失せたり。その日は風の烈しく吹く日なりき。されば遠野郷の人は、今でも風の騒がしき日には、けふはサムトの婆が帰って来そうな日なりといふ。
                                   「遠野物語8」寒戸の婆


蚕飼山祠

この話の他にも「遠野物語拾遺109,110」にも神隠しの話があります。
一〇九 遠野町の某という若い女が、夫と夫婦喧嘩をして、夕方門辺に出てあちこちを眺めていたが、そのままいなくなった。神隠しに遭ったのだといわれたが、その後ある男が千盤ヶ嶽へ草刈りに行くと、大岩の間からぼろぼろになった著物に木の葉を綴り合わせたものを著た、山姥の様な婆様が出て来たのに行逢った。御前はどこの者だというので、町の者だと答えると、それでは何町の某はまだ達者でいるか、俺はその女房であったが、山男に攫われて来てここにこうして棲んでいる。お前が家に帰ったら、これこれの処にこんな婆様がいたっけと言うことを言伝してけろ。俺も遠目からでもよいから、夫や子供に一度逢って死にたいと言っていたそうである。この話を聞いて、その息子に当たる人が多勢の人達を頼んで千盤ヶ嶽に山母を尋ねて行ったが、どう言うものか一向に姿を見せなかったということである。
                               「遠野物語拾遺109」



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一一〇 前に言った遠野の村兵という家では、胡瓜を作らぬ。そのわけは、昔この家の厩別家に美しい女房がいたが、ある日裏の畠へ胡瓜を取りに行ったまま行方不明になった。そうしてその後に上郷村の旗屋の縫が六角牛山に狩りに行き、ある沢辺に下りたところが、その流れに一人の女が洗濯をしていた。よく見るとそれは先年いなくなった厩別家の女房だったので、立ち寄って言葉を掛け、話をした。その話に、あの時自分は山男に攫われて来てここに棲んでいる。夫は至って気の優しい親切な男だが、極めて嫉妬深いので、そればかりが苦の種である。今は気仙沼の浜に魚を買いに行って留守だが、あそこ迄は何時も半刻程の道のりであるから、今にも帰って来よう。決してよい事は無いから、どうぞ早くここを立ち去って下され。そうして家に帰ったら、私はこんな山の中に無事にいるからと両親に伝えてくれと頼んだという。それからこの家では胡瓜を植えぬのだそうである。
                               「遠野物語拾遺110」
一三五 青笹村大字中沢の新蔵という家の先祖に、美しい一人の娘があった。ふと神隠しにあって三年ばかり行方が知れなかった。家出の日を命日にして仏供養など営んでいると、ある日ひょっくりと家に還って来た。人々寄り集まって今までどこにいたかと訊くと、私は六角牛山の主のところに嫁に行っていた。あまりに家が恋しいので、夫にそう言って帰って来たが、またやがて戻って行かねばならぬ。私は夫から何事でも思うままになる宝物を貰っているから、今にこの家を富貴にしてやろうと言った。そうしてその家はそれから非常に裕福になったという。その女がどういう風にして再び山へ帰って往ったかは、この話をした人もよくは聴いていなかったようである。
                               「遠野物語拾遺135」
一四〇 遠野の裏町に、こうあん様という医者があって、美しい一人の娘を持っていた。その娘はある日の夕方、家の軒に出て表通りを眺めていたが、そのまま神隠しになってついに行方が知れなかった。
それから数年後のことである。この家の勝手の流し前から、一尾の鮭が跳ね込んだことがあった。家ではこの魚を神隠しの娘の化身であろうといって、それ以来一切鮭は食わぬことにしている。今から七十年前の出来事であった。
                               「遠野物語拾遺140」


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神隠しの話は娘が戻ってくる戻ってこないに関わらずとにかく忽然と姿をくらますのです。日常の中から一瞬のうちに理由もなく消えていなくなるのです。そして杳として行方が知れず,探しても分からない。「八 黄昏に女や子供の家の外に出ている者はよく神隠しにあふことは他の国々と同じ。」と柳田国男は説明を加えているが彼自身が神隠しに遭いそうになった経験を持っているので特に取り上げたとしてももともと神隠しの話は多いと思ってしまいます。

一体この神隠しの話は何を意味しているのでしょうか。
夕方は外に出るものではないぞ。天狗に連れて行かれるぞ。でも実際には天狗の存在は書かれてはいません。さらわれてしまうぞという教訓を示しているのかもしれません。遠野物語に出てくる神隠しの話は,娘が神隠しに遭う話が殆どです。捕らわれているが大丈夫だという言い方をしています。

今回神隠しの話を数回に分けて語る中で,全国津々浦々にある神隠しの話が村落共同体の維持にどのように関わっていたのかを遠野物語を通して考えてみたいと思うようになりました。つまり神隠しと称してどうしても山に逃げ込まなくてはいけない事情があったのではないかと大人の事情側から考えると,妙に肯けるような気がしたのでした。


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