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遠野物語-不思議な呪文-その4

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遠野の小友地区の「座敷念仏」の中に残っていた「阿字十方三世仏 弥字一切諸菩薩 陀字八方諸聖経 皆量阿弥陀仏」というお経。
 不思議なのはこのお経がどの宗派仏教の寺院に伝わっていないというのです。では,このお経が一体誰によって遠野の人々にもたらされたのかという謎が残るわけです。
 そこで調べてみると先祖の供養をする中世(鎌倉後期から室町)の板碑にこのお経が書かれている事実が分かってきました。これらの板碑は特に宮城・岩手に今でも多く残っているので,これらの板碑からアプローチできないかと思ったのです。またこのお経が室町時代の「御伽草子」の中にあわやという時に助ける呪文として用いられていたことも分かってきました。
この呪文が鎌倉末期,南北朝期から室町にかけて広く使われていたこともあったようなのです。この呪文を考察した内藤氏も竹田氏も高野聖と推測していますが,どうでしょうか。遊行して歩く聖は沢山いたと思います。念仏聖,廻国聖,六十六部聖等・・・。

まず板碑の造立年代からして鎌倉武士が陸奥に入ってきたことで板碑が急激に造られ始めます。
次に,陸奥に沢山の人が往き来できるようになっていった時代も同じ時代です。和歌の世界では陸奥の歌枕も沢山あります。能因法師が,その後に続いて西行が,西行に続いて芭蕉が奥の細道を歩きます。
そして同時に信仰の面では三山参り,お伊勢参りと,熊野参りと,民衆の中でも移動が始まります。

そんな時代の移り変わりの中で,この呪文は遠野に今でも消えることなく民衆の回向の中に残されてきたのです。
では4回目の今日は,考えられる人物にスポットを当てていきましょう。
先回の記事の最後にこう書きました。
ただ1270年代という最も早い時期の「阿字十方三世仏」板碑群とどうしてもずれが生じます。
1 是信
2 一遍
3 その他の高野聖
今日は是信です。


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夕立前

是信は親鸞の弟子で記録では「是信 奥州和賀住」と書かれ,弟子は「能信(是信の子供?後に本誓寺二世),仏道,覺妙 自余門弟之を略す」(建保五年1218年)とあるのでその他にも多くの弟子がいたようです。岩手,秋田,青森に真宗を広めた最初の人ということになります。是信は和賀に住んでいたというところから,その門流を和賀門徒と言われています。是信の記録は遠野の西教寺にも伝わっています。
 是信は承安三年(1173)生まれで86歳まで生きたと言うので正嘉二年(1258)没ということになります。親鸞の弟子いつ頃から和賀に住んで折伏弘布活動をしていたかと言うと,専空という弟子が聖人からこんな話をされています。
「ただ陸奥のこと最(いと)いぶかしく思うぞ。是より彼国に赴,是心(是信のこと)覺圓,無為心等に教示し,立川の邪義を防がんこと,御坊に非(あらず)して誰かあるべき」と記録にあるのです。「親鸞聖人正統伝」
 このことから,専空はもう五年にわたって是信を助けて岩手で布教活動をしているけれど,まだ立川流という好ましくない教えを正しく教化させねばならない。このことは大切なことで,専空お前が手伝わなくて誰がやるのだということを言っています。この文書が暦仁元年(1238)ですから,五年を遡っても1234年の文暦年間には和賀に下向して布教活動に力を入れていたことになります(1231年の説あり)。

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当時極楽寺のあった国見山。是信も,西行も,そして今度話す一遍も皆ここから陽が沈むこの景色を見たと思います。


今回,親鸞の和讃を全文検索してみましたが「阿字十方三世仏 弥字一切諸菩薩 陀字八方諸聖経 皆是阿弥陀仏」という言葉は出てきませんでした。

是信についての記録を他の寺社関係から探るか,地元の遠野西教寺の記録等から出てくることはないでしょうかね。

次回は一遍です。


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