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戦後70年に思う

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ヒマワリ畑の彩雲

8月13日のお盆の入り日にテレビで「NHKスペシャル「女たちの太平洋戦争~従軍看護婦 激戦地の記録~」」という番組を観た。
戦後70年特集の一つだと思います。

以前にある人から従軍看護婦だった姉の消息を探して欲しいとお願いされたことがあった。
ちょうど私の叔母も看護婦をしていて召集されて従軍看護婦だった。戦争中赤紙を4回もらったと言っていたことがあったことを思いだし,調査することになった。20年も前のことである。それでも戦後50年が経過していた。
叔母は厳格な人で戦争のことを全く語ろうとしなかった。いやむしろ戦争のこととなると堅く口を閉ざしているようにも思えた。概して昔の人は自分のした苦労を家族であっても人には語ろうとはしなかった。私はそれが日本人の美徳だとも感じたのだった。私自身も尋ねなくなっていった。
そのようにして何も知らずに育ってきた。
戦争のことは知識以外は何も知らなかった。悲惨なことがあったという自分の中でも他人に起こったことのように実感がなかったのである。恥ずかしいことだ。

終戦記念日伊豆沼s
霧深き朝

平成の7・8年の頃だったと思う。
病院で泊まり込みの人間ドック検診に行った折,同じ日程で検診を受けていた初老の男性がいた。その人は待ち時間という待ち時間に一生懸命に本を読んでいた。片時もその本を離さずひたすらに読んでいる。病室も同じ部屋だったのだが病室でもベットの上に正座して背筋を伸ばし同じ本を読んでいた。
その本が「道」という日本赤十字社宮城県支部が出した,従軍看護婦の戦時中の記録であった。非売品になっていて遺族や関係者だけに配られた本だった。私も偶然亡くなった叔母の本棚から借りてこの本を読むことになった。

信じられない事実が書いてあった。
特に調べることになったOさん(仮にOさんとしておきます)は,当時満州に配属されていたため,満州の経緯しか調べなかったが,多分すべての戦地で兵隊,従軍看護婦,民間人も大変なことになっていたのでしょう。

ハスいろいろ 105-2s

満州では忘れもしない日付が変わった8月9日夜中のソ連軍の攻撃。午前2時全員召集。
従軍看護婦のOさんは第00救護班(記録を伏せます)で当時は満州綏陽陸軍病院で勤務中ソ連軍侵攻の爆撃に遭いました。
二つの班に分かれ,患者を搬送するために綏陽駅の列車に運んでいました。午後5時,防空壕にいた患者は歩ける者は牡丹江へ行くことになりました。122名の患者と2名の看護婦を乗せた列車は綏西,下城子付近でソ連軍の爆撃に遭いました。歩いて退避した患者達もソ連軍の戦車の砲撃に遭い,ほとんど亡くなりました。看護婦達21人は任務終了後,先発者の13人が退避しましたが途中別れ別れになってしまいました。Oさんは後発隊の6人の中にいました。それっきりOさんを見た人はいません。綏陽駅付近で任務中に亡くなったと思われます。
15日に終わっている戦争なのに,満州では8月23日の武装解除までひたすら逃げ延び,戦い続けていました。

かみなり 005s
雷の予感

記録を読むことに耐えられなくなりそうでした。最後まで生き残った看護婦の証言を続けます。
私は婦長以下四人と兵隊さん若干名で食料も持たずに水筒と雑のうの装備で歩き始めましたが,身を軽くするために雑のうも捨ててしまいました。(中略)翌日(10日か)前方の飛行場(太令飛行場か)からあまり遠くない地点までたどり着いたとき,相当数のソ連戦車隊に包囲されていました。ソ連軍の話し声も聞こえました。通過できる状況ではなく,捕われの身になったら大変と婦長以下覚悟を決めて,居合わせた兵隊さんに幇助を頼み,東の方に向き,故国日本に別れを告げました。
 一列横隊に並び,差し損ないのないように左の胸を開き,目を閉じて静かに待ちました。敵兵の話し声が聞こえていたのに心は平静で「無」の境地でした。
「はずれたからもう一回」という声が聞こえた後私は気絶したのでしょう。どのくらいたったのでしょう。夜露の冷たさで気がつきました。周囲を見回すと,みんな息絶えている様子でした。・・・自決した友の亡骸は満人が葬ってくれたようでした。

自決した5人は,故国東にある日本を向き,横一列に並んで座り,短刀で右隣の人の左胸を「せーの」で刺すのです。


宮城県庁の援護課の方のお世話になりながら,作戦行動表等いろいろな記録を読みました。
最後に看護婦Oさんの弟である遺族の方に整理してお渡しすることができました。平成12年の夏でした。
その後にもことあるごとに感謝の手紙をいただきました。この調査をきっかけに私の戦争のとらえ方はすっかり変わりました。ただただ私たちにできることは何かと考えるようになりました。
その後,戦死したO看護婦さんの遺族の弟さんは,生き残った同じ救護班の看護婦さんが福岡にいることを知り,会いに行ったそうです。遺髪もない,遺品もない,そして死亡を確認する人もなく弟さんは戦後ずっと手がかりを探し続けていました。正式な死亡通知を出したのが昭和40年代でした。

以後国では殉死した従軍看護婦の方々に礼儀を尽くし,ご労苦に報いるために内閣総理大臣からの書状を贈ることになりました。
それはいつだと思いますか。平成17年のことですよ。
今からたった10年前のことです。つまり戦後60年間放っておかれたということでしょうか。

あまりにも・・・。


ですから13日に放送された「NHKスペシャル「女たちの太平洋戦争~従軍看護婦 激戦地の記録~」」の視点は画期的だと言ってもいいでしょう。記録として残されたものを私たちへのメッセージとしてきちんと受け止める義務があると思います。戦争で亡くなった方々のご冥福と遺族の方々のご健勝を心よりお祈り申し上げます。


追記
今日の記事は個人の名誉を守るため,部隊名,作戦行動表,日時,場所,出身地等の特定できるものを伏せながら書きました。結果分かりにくい部分もあることをご了承下さい。詳細は日本赤十字社宮城県支部編「道」を図書館等でご覧になって下さい。


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