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西行こぼれ話その二

北斗星ラストラン-2gs
北斗星ラストラン 8/23

拝啓
菅原さんお元気ですか。
北斗星も今朝のラストランで終わりとなってしまいましたね。
さて,今日は西行のことについての二回目なりました。
今感じていることなどをまた書いてみたいと思います。
                                                               匆々
                                                                     nitta245より

「みちのくの 奥ゆかしくぞ 思ほゆる 壺の石文 外の浜風」『山家集1011』
と詠んだ西行自身は一体青森の「外の浜」へ行ったのでしょうか。
このことについて先回,その可能性は少ないのではないかとお話をしました。でも自分の考えた範囲ですから実際のところは分かりません。西行が平泉に着いたのは天養元年(1147)10月12日で,今の暦では11月の下旬にさしかかる時期,雪が降って吹雪になっていましたからもう平泉に足止めされてその年を平泉で越すしかなかったということが確かでしょう。次の年,遅い雪も解けて吉野を超える束稲山の桜を見てゆっくりと出発したのでしょう。
その束稲山の吉野にも勝る桜を見た天養二年(1148)の春,帰途につく西行は外の浜に行ったのかという可能性です。
69歳になっていた二度目の陸奥行きも途中鎌倉で頼朝と会ったのが9月15日といいますからその調子で来るとやはり寒い季節にかかります。二度目の平泉来訪はまた年を越して,翌年のほととぎすの初鳴きを聞きながら,足を北に向け30~40キロメートルばかり歩いて,極楽寺へ行き,「陸奥のかど岡山のほととぎす稲瀬のわたしかけてなくらむ」と詠んだのでしょうか。その前に極楽寺で詠われたこの歌が西行の歌には入っていないのです。

ではどうして「陸奥のかど岡山のほととぎす稲瀬のわたしかけてなくらむ」という歌が西行の作とされたのでしょうか。
意外なところに答えはありました。
菅江真澄です。


プール 018-2s
夕暮れ電車栗駒山通過

菅江真澄の「岩手の山」にその答えを見つけました。
天明八年(1788)の夏六月半ば。
菅江真澄は「陸奥のかど岡山のほととぎす稲瀬のわたしかけてなくらむ」とこの歌に詠われた極楽寺跡にいました。西行が平泉を訪れてもう500年も経っています。老法師が菅江真澄を案内していた時です。
,「陸奥のかど岡山のほととぎす稲瀬のわたしかけてなくらむ」とは円位上人(西行)の歌です。老法師曰く
と書かれていました。
また佐久間義和 著の奥羽観蹟聞老志(1883) 第20巻の12巻,江刺郡の「稲瀬の津渡し」の紹介で,この歌が西行作と紹介されており,「土地の人が伝えるところに依れば西行の歌有り。山家集と考えられるがその歌は(山家集には)見られず。」と前書きがありました。やはり西行の歌ではなかったと書いてあります。

終戦記念日伊豆沼 271-2s
ハスの中を飛ぶミサゴ

そこで菅江真澄の作品を通して西行の動きをとらえ直すことはできないかと思い,菅江真澄の一連の青森行き「外の浜づたひ」や「外の浜風」を当たってみたのです。しかし西行に関する記述は見当たりませんでした。西行伝承の一つとして考えて良いでしょう。岩木山について「ふしみてもふじとやいはむみちのくの岩城の山の雪のあけぼの」も西行作と言われているところがありますから西行は青森に来たのだという伝承になるのでしょう。

ただここで菅江真澄の文を読んでいて,本当にこの人はよく知っている人だと感心する場面がありました。
真澄が青森を旅しているとき,若い女が小川で何か洗っていました。何を洗っているのかなと真澄が聞きますと女が万葉集の歌で答え,真澄がその女の教養の深さに驚くという場面が書かれています。実は西行伝説にはこのような西行をぎゃふんと言わせる伝承がいっぱいあるのです。びっくりした西行がしっぽを巻いて逃げていく話,西行戻りの話など西行の名を借りた多彩な楽しい話が全国にあります。なぜそんなにも西行の伝承が多いのか。
菅江真澄はこれらの西行伝説をよく知っていて,その楽しさを自分の紀行文にも巧みに取り入れているのです。

そうした話はまた次に書きます。
どうぞご自愛の程を。
おやすみなさい。


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