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西行こぼれ話 その六-雁風呂の話-

前略
菅原さん。お元気ですか。
とうとう西行と雁風呂の関係の話に入れそうです。西行が青森の外が浜に実際に行ったかどうかという話について長々と5回もかけてお手紙を書いてきましたが,やっと今日の6回目からは西行は雁風呂の話を知っていたのかという話に入ります。結論から言えば知っている可能性は少ないかも知れませんが,何か手がかりになるようなことがあるかを探ってみることは面白いことですね。西行の東下り,西行が平泉から青森の外が浜まで足を伸ばしたか,そして外が浜に伝わるこの「雁風呂」という美しい話を聞いていたかということになるでしょう。

そのためには雁風呂という話が西行の生きていた時代辺りまで遡れるのか,そのような記録があるか。ということと,西行の歌の中に雁風呂の話を土台としたような歌があるかということになります。
今日はまず「雁風呂」の話から始めましょう。


栗駒 108-2gs

混沌への序章

まず雁風呂の話は心温まる美しい話で,ちょっと検索してみても沢山取り上げられていますね。教科書に取り上げられ広く知られている椋鳩十の『大造じいさんとガン』の話も前書きを読めば,九州の猟師から聞いた話と書いてあるので,昔は九州辺りまでガンも渡ってきていたのでしょう。江戸時代に東京にも来ていたと聞いたことがあります。


現在宮城県の伊豆沼,内沼,蕪栗沼には毎年10万を超えるマガンが越冬のため渡ってきます。
10万を超えるマガンが毎朝飛び立つ様子はまさに天地をゆるがす震動と音で,自然の力をそのまま感じ取れる唯一の場所です。そして夕方塒に一斉に鳴きながら帰ってくる雁の落雁という独特の急降下やひるがえりも見事です。
日曜内沼 633-3s
ガンのアップ

昔は鴻雁と言ったそうで,鴻はヒシクイ,雁はマガンのことだそうです。
まず雁風呂の話は大体こんな話です。
日本に秋に飛来する雁は、木片を口にくわえ、または足でつかんで運んでくると信じられていた。渡りの途中、海上にて水面に木片を浮かべ、その上で休息するためであるという。日本の海岸まで来ると海上で休息する必要はなくなるため、不要となった木片はそこで一旦落とされる。そして春になると、再び落としておいた木片をくわえて海を渡って帰っていくのだと考えられていた。旅立ちの季節が終わりもう雁が来なくなっても海岸にまだ残っている木片があると、それは日本で死んだ雁のものであるとして、供養のために、旅人などに流木で焚いた風呂を振る舞ったという。 (wikiより)
この話は一体どこからどのようにして伝わっているのでしょう。

ここで地元青森の図書館の「雁風呂」についてのレファレンスがあるので見てみましょう。
青森県立図書館で所蔵している数多くの民話・伝説集のどれを探しても、(雁風呂が)“青森県で採話された”“○○村に伝わる”といった青森県の民話・伝説として掲載されている本はありません。(中略)『津軽の伝説1』で坂本さんは、調査の結果として「雁風呂」の記述がある古文書を二作品挙げて解説しています。
それによると「雁風呂」の話を初めて記録したのは京の豪商「万屋」という商家の主であり、随筆家の「百井塘雨」が書いた『笈埃随筆』だろうか、としています。作品の成立年(いつ書かれたものか)は不明とされていますが、百井塘雨の没年は寛政6(1794)年となっています。この随筆では「南部津軽口」「奥南部」と記述があり津軽を連想させますが、断定はできません。もう一つは、南方熊楠が「常世国について」という論考で取り上げ、「~俗に外ヶ浜の雁風呂湯と言う、と見ゆ。」と記述している『採薬使記』の「雁風呂」が、津軽の地名を確認できた最初の史料であるとしています。『採薬使記』の成立は宝暦8(1758)年で、江戸の人、阿部照任、松井重康の撰です。(中略)
そこで、「雁風呂・雁供養」が江戸期には俳句の季語として使われていることから、様々な事物を取り上げた書物によって、広く庶民に知られていたのではないかと調査したところ、『滑稽雑談』四時堂其諺著の巻之十六の二四が「雁風呂落雁木」の項目となっており、以下のような記述がありました。
「或説伝、越國の海嶋にて、鴈の社渡る時、鴈の街たる牧木を落とす所侍る、海島の社是を拾ひて、風呂をたくの薪とす、故に是を鴈風呂と伝よしいへり。」
この書の成立は正徳3(1713)年で、作者の四時堂其諺は京都安養寺正阿弥の住僧です。「南部津軽口」「奥南部」、「外ヶ浜」どころか「越國の海嶋」とありますので、他国の海に浮かぶ島の話として伝わっているということになります。
以上のことから、「雁風呂、雁供養」は津軽・外が浜に独自に伝わる話ではなく、遠いみちのくの地に思いを寄せた都びとが文芸的な脚色をし、その話が後世に伝えられたものと考えて良いようです。


そこで『採薬使記』に載っているという「雁風呂湯」を確かめてみようと当たってみました。『採薬使記』の成立は宝暦8(1758)年で、江戸の人、阿部照任,松井重康の撰です。
ところが気を付けて見たいものは表紙にありました。阿部照任,松井重康の他に「後藤光生 附記」と三人目の名前があるのです。文中「光生按ずるに」という言葉が沢山出てきます。つまり後藤光生が更に解説を加えているということです。

雁風呂
『採薬使記 上』奥州の部に雁風呂の話がある。

重康が言うには奥州の外が浜辺りには毎年秋に雁が来るけれど,羽を休めるために一尺ほどの木の枝をくわえてくる。その枝を捨てておいて更に南へ渡っていく。次の年の春に北へ帰る頃捨てておいた木の枝をまたくわえて渡っていく。しかし(捕らえられたり,撃たれたりして)帰って行く雁は稀で木の枝だけが残ってしまう。そこで残った木の枝を集めそれを薪として風呂を焚く。そしてその風呂にいろんな人に入ってもらう。
このように遠い国に渡ってきて人に捕らえられ,死んでしまった雁たちを供養するのである。毎年春のこの時期に行われるこの行事を俗に「外が浜の雁風呂湯」と言う。


これが当時に伝わっていた雁風呂ですね。
ところが,次のページを見ますと,この雁風呂の話の経緯が書いてあるのです。

雁風呂山水国tr
『採薬使記 上』雁風呂の話がある次のページに注目して下さい

光生が思うに(後藤光生のこと)求林齋の(西川如見のこと。求林齋と号した)「怪異辯断」という本にあるが,日本渡海の唐人が語りて言うには唐土の北の山西国(山西省辺り)あり,その北辺に毎年鴻雁の来る時に枯れ木の細枝をくちばしにくわえて飛んできて落とすところあり。土地の人はそれを拾い集めて薪として売る人がいる。その値は毎年白銀五万両にもなるという。

栗駒星 141s

ということは地元に生まれた話ではなく,中国山西の話が外国人によって日本にもたらされた。ということになります。
また解説を加えた後藤光生に依れば求林齋と号していた西川如見の『怪異辯断』という本にそのことが載っているというので『怪異辯断』を当たってみましたが特別に項立てて取り上げていない文章の中にあるのか,探し当てることはできませんでした。

混沌への序章
蕪栗沼 ガンの飛び立ち

阿部照任も松井重康も「採薬使記」の前書きを見ますと,「享保初めの頃の人」とあり,解説を加えた後藤光生も本草学者で様々な本を編したり書いたりしている1696-1771年に生きた江戸の人です。

どうも雁風呂という話の出所(でどころ)の山西国という場所はマガンの渡りのルートにも当たっている場所で確かとも言えそうな雰囲気です。
マガンルート
人工衛星を使ったマガンの渡りのルート。中国へのルートが山西国に重なるようです。

菅原さん
文献による初出が江戸時代ということになります。
「みちのくの 奥ゆかしくぞ 思ほゆる 壺の石文 外の浜風」(山家集1011)と歌には歌っている西行ですが,実際に平泉にやってきた時に青森の外の浜まで足を伸ばした形跡もなく(伝説などにはありますが),雁風呂の話も後の江戸時代の1713年の『滑稽雑談』
か。『採薬使記』の1758年かということになります。西川如見の『怪異辯断』という本だとしても1714頃となります。
まだ当たっていない部分もありますから引き続き探してみます。

今日のところはこの辺にておわりとします。
ご自愛下さい。
尚,以前の記事で「中勘助の鳥の物語-雁の話-」を載せています。お暇な時にでもどうぞ。(その記事は こちら )

追記
『採薬使記』は国会図書館デジタルコレクション.http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2535819
『怪異辯断』は早稲田大学「古典籍総合データベース」.http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/wo01/wo01_03382/index.htmlを参照しました。

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