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闇の紀行文-串田孫一のことば その7-

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稲刈り間近

ここに口耀久(あきひさ)著『「アルプ」の時代』(2013)という本があります。
その口氏がこの本の最終章「補遺として」で,思い返せば『アルプ』はの雑誌でありながら,意外にも紀行文が少なかったと言い,「申し分なく新しいスタイルの紀行文」として挙げたのが串田孫一の「島々谷の夜」でした。

今日はそのことについて話したいと思います。
「島々谷」は穂高に入る徳本(とくごう)峠に続く道です。あのウェストンが1891(明治24)年にこの道を通って上高地に入ったのでした。どんなルートなのか少し昔の昭和54年版アルパインガイド「上高地・槍・穂高」ガイドブック(と渓谷社)を見てみました。著者は,三宅修氏です。串田孫一とともに『アルプ』を創ったメンバーの一人でした。
島々谷を遡り,二股取入口,岩魚止小屋,徳本峠まで8時間30分の行程です。この昔からの道を辿った「島々谷の夜」は,何と言っても夜の景色を巡るところにこの紀行文の視点の新しさがあって口氏はベストと挙げているわけです。の夜の世界を描くところに山の魅力を見いだそうとする串田氏の出色の出来だと激賞しています。

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栗駒山の秋の空

「突然ジュウイチが鳴いた」で始まり,ランプを灯しながらの真っ暗な山道を歩いていきます。特段事件が起きるわけでもないのですが,夜独特の雰囲気が普段は夜歩かない者にも不思議な感覚で迫ってきます。谷の上の尾根を静かにころがるように動く月。少人数の室内楽のように強く弱く聞こえる谷川の水の音。真っ暗な道を突然横切って行く動物たち。夜独特の研ぎ澄まされた感覚で書かれていきます。

夜の沢筋を歩く串田。まさしく梶井基次郎の「闇の絵巻」の世界ではありませんか。
しばらく行くと橋がある。その上に立って溪の上流の方を眺めると、黒ぐろとした山が空の正面に立ち塞ふさがっていた。その中腹に一箇の電燈がついていて、その光がなんとなしに恐怖を呼び起こした。バァーンとシンバルを叩いたような感じである。私はその橋を渡るたびに私の眼がいつもなんとなくそれを見るのを避けたがるのを感じていた。
まさに暗い中に一人いることが,バァーンとシンバルを叩いたような恐怖に変わる瞬間があるのです。梶井の卓抜した闇の表現が続きます。
なんという暗い道だろう。そこは月夜でも暗い。歩くにしたがって暗さが増してゆく。不安が高まって来る。それがある極点にまで達しようとするとき、突如ごおっという音が足下から起こる。それは杉林の切れ目だ。ちょうど真下に当る瀬の音がにわかにその切れ目から押し寄せて来るのだ。その音は凄すさまじい。気持にはある混乱が起こって来る。大工とか左官とかそういった連中が溪のなかで不可思議な酒盛りをしていて、その高笑いがワッハッハ、ワッハッハときこえて来るような気のすることがある。心が捩ねじ切れそうになる。するとそのとたん、道の行手にパッと一箇の電燈が見える。闇はそこで終わったのだ。
突然迫っている杉林の闇が切れて,近くなって聞こえる谷川の瀬音が男が高笑いをしているように聞こえるのである。

串田も暗闇をやり過ごすかのように,こんなことをします。

私は灯りを道の曲がり角に向けて,そこからひょっこりと私の命を脅かす怪物が現れることを,しきりに想像してみたが,殆ど効果はなかった。怪物はあまりに滑稽すぎたので,熊にしてみた。しかしこれも駄目だった。こんな時に私が想像する熊はちっとも凶暴ではなくて,恐縮している容子(ようす)だつた。
同じ暗闇に対しても,梶井基次郎よりも串田の方が健康的な想像をします。その串田の闇を照らしていた電灯は丸木橋のところで切れて,全く進めなくなり沢のところで野宿することになります。

栗駒星 004s
栗駒山 振り返って見るオリオン座


「自分がなぜ夜を選んでこの谷をのぼってきたかということの続きを考えてみようかと思ったが,流れの音が私に何も考えさせようとしない。
 それに道を失い,その後で灯りを失った私は,全く夜に征服されてしまって止むを得ずここでぼんやりとひっくかえっている。灯りをつけてせっせと歩いているうちは,夜が幻想を与えるものとして,あるいは私に試練を与えるものとして,ともかく考える対象となるのだが,どうしようもない闇にこうしてしばられてしまっては,思索などは気取りすぎていていまいましい。」
この辺などは近代的な考え方をする串田の態度がよく分かるところでしょう。暗闇に対するこのような客観的な書き方は電気になれた,また山に慣れた串田だからできることです。この串田の闇に対する考え方と梶井基次郎や内田百閒や夏目漱石の闇の描かれ方の違いはある面で明治という電化される以前の日本人の思考と,明るすぎる夜を持った近代的な大正昭和を生きている時代の感覚の違いかもしれません。

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空への階段

この「島々谷の夜」の最後を串田はこう締めくくります。
が見えた。三つ見えた。白鳥が天頂の近くへ来ている。一時ごろだろうと思った。
このように闇を楽しむような山慣れた人の暗闇と,例えば谷崎潤一郎の「美食倶楽部」で設定された闇とを比べると,私には暗闇のとらえ方が格段に違うような気がします。観察に徹する串田孫一の近代の姿勢とわざと視覚を排したところに究極を見つけ出そうとした谷崎の触覚や臭覚,味覚に意味を与えようとする前近代の闇の豊饒さに今一度浸りたい気もします。

しかし暗闇の山歩きを書いた串田の視点はきわめて正しいと思います。日本人の昔からもっていた暗闇に対する感覚を再発見する紀行文に仕立ててあるからです。

今日の本
串田孫一『山のパンセ』
山のパンセ



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