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11/1今朝の伊豆沼-新・逃走論その二-

伊豆沼日曜 081-2s
ガン 朝の飛び立ち

とうとう11月に入りましたね。
今日も「11/1今朝の伊豆沼」の写真にのせてだらだらとお送りします。

浅田彰が「構造と力」の後,「逃走論」を出したのは1986年でした。もう30年も昔のこととなったのです。
この後,正に浅田は軽々と逃走して,のちに出された本は逃げた彼の後ろ姿だけを写しているように感じました。当時に,社会の束縛とやらを意識していた血気盛んな青年達は,村上龍の言う「システム」からの自由だの,様々なポストモダンの繰り広げる動向に注目しながら仕事に就き始めて,社会に出て行ったのだと思います。そしてやがて私も,浅田彰ほどスマートですばやくはなかったが,無骨な沈黙という方法を取りながら仕事と家庭の中に埋没していったと思っています。

この記事のタイトルは「新・逃走論」と名付けました。当然,浅田彰の「逃走論」をもじっています。実際私はどう逃げてきたのか,どこに寄り道をしたのか,そんな自分の沈黙への反省の意味もあります。

伊豆沼日曜 331-2gs
朝靄立ちこめる

昨日,この連載を始める当たり,「米」「百姓」「サンカ」「山人」「山伏」「一揆」等を扱います。と言いました。
そして天保八年(1837)仙台藩の気仙沼に住む熊谷新右衛門という男が,餓死者を救済するために米の買い付けをしに秋田の矢島藩へ行った記録『秋田日記』を紹介しました。
この天保八年という年だけで,宮城県気仙沼の町民4000人のうち疫病が起きて1300人も死んでいます。郡下でも4000人がなくなっている
単純に考えてもなぜヤマセによる凶作続きの中で農民は命を守るために移動しなかったのかと思います。つまりなぜ逃げなかったのか。

逃げたらつかまって殺されるんでしょう。と簡単に言うのではなく,考えてみたいのです。
簡単に逃げることが出来ず,やがて死に至らざるを得なかった江戸時代のシステムというものを。
昨日それを土地と米と税が一体化した律令制のシステムゆえと言いました。土地を持つ,持たないが,まず職業や身分制度の土台にあるのです。現代でも借金するのに土地が担保になります。土地というものがどれほど日本では資本とされてきたのかは言うまでもありません。その土地から生産される米や作物をつくる農業は,日本の根幹産業です。網野善彦氏は米も野菜も,絹も,果樹も,全部が全部農業にすることはいかがなものかと考え,百姓の多角的経営の実態を学問的に探ることで百姓の姿を探る必要性を説きました。

突然ですが,「修験の身分」と題された資料(宮城県史所収)がありますので紹介します。
和光院は滝不動として知られ,県指定の平泉経一巻を蔵する。
政宗が慶長14(1609)年,仙台大橋の用材にこの寺の杉25本を伐り送った。
その代償として850文(八石五斗四升)を賜り,代々御黒印,御朱印を与えられていた。御朱印を受けるために代替わり毎に登城していた。和光院はこの寄付地以外には百姓地を持たず人別帳には載っているが百姓とは思っていなかった。人足,御郡役,高がかりの手伝い,御貸上等も命ぜられることはなかった。

しかしある年(享保以降不明)5月上御手伝として一貫(一石)に一歩の割合で肝入長三郎方で割り当て,小肝入太兵衛方より組頭を以て申し来った。御寄進地でもすべて申しつけるというのなら出すが,他の地方と異なる割り当て方と聞いたので一応問い合わせた。
しかし何の返事もなく翌年一月登米郡黒沼(佐沼)代官所より至急出頭せよと肝入を通して言ってきた。

「百姓前を以て尋ねる故,袈裟を脱げ。御貸上延引の段(引き延ばしている理由)を述べよ。」と言う。
「百姓とは心得ていません。」
「いいや少しでも耕作しているのであれば百姓だ。百姓の身分として扱うのであるからとにかく袈裟を脱げ。」
「この衣鉢は本寺より許されて着用しているものです」

衣を脱がぬとどうなるか分からない様子だったので,袈裟を脱ぎ,御朱印賜る来歴を述べた。
この和光院は明治の廃仏毀釈で檀家を持たない寺ゆえ,廃寺になり現在も石巻の荒澤神社としてその場所に残っています。
さて寄進地であっても土地持ちなのだから百姓だと代官が言うのです。そして土地持ちであるならば,納税,使役の責務を同時に負うことになります。一寺の住職なのですから職業としては僧侶になりますが,そのような視点で職業を分別しているのではなく,あくまで土地持ちか,土地持ちでないかが判定の基準になるのです。土地に税金をかけることが税制の根本に関わります。土地に税金を掛けると言うことは,まず年貢を収める,使役労役の義務を負うことになるのです。

伊豆沼日曜 482-2s
伊豆沼に白化したガンが一羽いるということでした。ハクガンなのか,マガンの白化したものかと話題に上がっていました。今日確かめてみました。くちばしの色は黒で,ハクガンではないようで,くちばしの形はハクガンで,羽の先の黒い部分からハクガンのようで・・・。どうでしょうか。ちなみに昨年のハクガンを載せてみます。
ハクガン 125-2s
2014.11.10に載せたハクガン

農民達は何度も凶作の窮状を訴えていました。何度も訴え,凶作続きのための減免を受けることもありました。
ここに『岩手の百姓一揆集-盛岡以南-』北上市史刊行会(昭和51)があります。それを見ると天保年間の飢饉がどれほどひどかったのかがわかります。前述した『秋田日記』の天保八年の前年,天保七年が15,八年が14次々と百姓達から願い書が出されています。願い書は嘆願,愁訴,強訴,越訴(他の藩に訴えること),そして逃散と訴えもいろいろです。
この中に逃散という団体で出ていくという訴えがありますが,土地もふるさとも捨てて出て行くわけではありません。願いが通れば戻るという,あくまでその土地で暮らすことを願っての逃散という命がけの訴えなのです。これらの一揆として取り扱われた内容も後々取り上げていきます。

伊豆沼日曜 428s
緑の首環をつけたハクチョウ。東京大学の樋口 広芳研究室がつけた緑の首環だと思います。その研究成果はインターネット上でも読めます。



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