FC2ブログ

新・逃走論その三-一揆のこと-

内沼 158-2s
賑やかな内沼の朝

この「新・逃走論」は,息苦しい今の時代をどのように飄々と軽やかに生き抜くことが出来るのか。
一見逃走するように見えながら,またしたたかに還ってくる小鳥のように。
フラジャイルでありながら「しぶとい」という姿で,苦境を生き抜く姿を模索します。
この連載は,「米」「百姓」「サンカ」「山人」「山伏」「一揆」等のいわば東北という地の歴史の周縁にいた人々を扱います。

今日は「一揆」です。
ここに『岩手の百姓一揆集-盛岡以南-』北上市史刊行会(昭和51)があります。司東真雄氏が編したものですが,それを参考にしていきます。
もともと一揆というのは「その道を同じくする」「揆を一つにする」という団結の徒を指していました。ですから武士でも,百姓でも下克上的な行動を取ることに使われていました。それが曲事(くせごと悪いこと)違法行為だと幕府や藩が百姓達が徒党を組んで団体行動をすることを触れを出して,高札を立て,処罰の対象としたのです。

ところが,よくよく強訴や愁訴,願書を読んでみると悪いのは百姓ではなく,強欲な地頭だったり,役人の不正だったり,肝煎の二重取りだったり,連年の凶作にも関わらず減免の処置もない行政の冷酷さだったりします。
そこで百姓達は「乍恐申上候事(おそれながらもうしあげそうろうこと)」と代官に願書を書きます。やむにやまれぬ窮状をしたためるのです。なにも藩の転覆やお家断絶を企てたのではありません。権力をかさに収賄にふける悪い重役と私服を肥やそうとする悪辣さを憎んだのです。南部藩の百姓達が越藩して伊達藩に行って訴えたのも,村役人や代官が訴えを何度も握りつぶしてしまったからです。そのようにして現在の窮状を知って欲しい一心でしたことでした。「なぜ越藩してまで」との問いに,百姓達は「種籾さえも無くなったし,南部領では皆無だから,貴藩に団体で拝借に来た。」と答えます。自分たちのいる藩を悪しく言わないのです。「おそれながら申上げます。おそれながら申上げます。」と百姓達は訴え続けます。

曇りの朝 035s
曇りの朝

一揆には確かに打ち壊しや強奪等の怒りにまかせた処罰に値する仕業もあります。しかし,すべての訴えを上がことごとく無視し,踏みにじった結果としての乱暴狼藉という部分もあります。大体は百姓は話し合い,願書を出して,要求を述べるのです。

ここに寛保四年二月の鬼柳,黒沢尻通強訴による書留がありますから概略だけ見てみましょう。
黒沢尻の百姓衆が「畑返し」というやり方に反対して田んぼにする畑もないことを知ってもらうために代官に立ち合ってもらおうとしたところ,取り次ぎに応じられず却下された。そこで命をかけての願(渇命書)であるとしても取り次いでもらえなかったので盛岡まで行って直訴しようとした。道々,人が増えて八百四人となったという。事を察して途中まで来た代官菊池三郎兵衛に差し出した。代官菊池は受け取った。そこでひとまず百姓達は村々に帰った。いろいろと一ヶ月ばかり経っていた。
ところが四月五日次々と百姓達数百人が捕らえられ,花巻や盛岡の牢屋に入れられた。盛岡に入牢された五人は十二月二十一日打ち首となった。その他の者は追放され地家敷はすべて取り上げられた。
なんとも厳しい裁決と顛末である。

ここで,そもそも事の発端になった「畑返し」というものについて話したい。
「畑返し」とは畑を水田に変えることです。一反歩は南部藩では水田では三百坪,陸田である畑では九百坪であった。同じ一反でも畑は水田の三倍の広さであった。この畑を水田に変えれば三反の水田になる。そして課税面積も三倍になるのである。そして畑では九百坪当たり三斗の麦や大豆という収穫物で納めるのに対し,水田になれば三百坪当たり米で一石三斗の現物納入という税に変わる。畑を田に変えるだけで税収入が12倍にふくれ上がるのである。これを藩では奨励して「畑返し」を強制していたわけです。
こんなことうまくいくはずはありません。米は畑の作物よりも収穫が難しい岩手県のことですから。これがヤマセ,干害,凶作続きの中で拍車をかけていた「畑返し」という政策の実態です。「まさに百姓とほこりは叩くほど出てくる」と考える為政者達の悪政です。


栗駒11.5 201s
栗駒山も雪を待つばかり

そんな中でも百姓達は智恵で苦境を乗り越えようとし,「乍恐申上候事(おそれながらもうしあげそうろうこと)」としたため続けました。
一揆の中でどさくさに紛れて乱暴狼藉を果たしたのは百姓達ではなく「徒人」と言われる一揆に乗じて破壊目的の者が入り込んでいたとする考えもあるようです。打ち首になった五人は「徒人」と言われる者達かもしれません。

農民の我慢にも限度があります。
しかし彼らは義を通し,命を懸けての「渇命願」を書き続けました。しかし,その「渇命願」は何度も踏みにじられ続けました。農民はやがてむしろの旗を立てて,ほら貝を吹きながら外へ出始めたのです。

逃走は逃げることではありません。義を通すための百姓達の智恵を尽くした闘争でもあったのです。

今日の本
『岩手の百姓一揆集-盛岡以南-』北上市史刊行会(昭和51)編集 司東真雄 5000円(当時)



にほんブログ村

にほんブログ村

関連記事