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新・逃走論-サンカについて-

伊豆沼霧の金曜 197-2gs
霧の中を飛ぶ

今日も伊豆沼・内沼の様子の写真にのせて,「新・逃走論」をお送りします。
この世知辛い拘束の世の中からどのように自由への道を探ることが出来るか。その可能性を見てみたいのです。
一回目に天保八年(1837)仙台藩の気仙沼に住む熊谷新右衛門という男が,餓死者を救済するために米の買い付けをしに秋田の矢島藩へ行った記録『秋田日記』を紹介しました。この天保八年だけで,宮城県気仙沼の町民4000人のうち疫病が起きて1300人も死んでいます。郡下でも4000人がなくなっています。
この熊谷新右衛門が栗駒山を越えて小安温泉に着いたとき,驚いたことにはヤマセによる太平洋側の大飢饉とは景色が一変します。第一飢饉がないのです。温泉で出された食事は大変なごちそうでした。そして湯治客は歌舞音曲に騒いでいたのです。
私は「秋田日記」のこの条を読んだとき,なぜ凶作続きの太平洋側の農民は命を守るために「逃走」しなかったのかと思いました。なぜ逃げなかったのか。それが土地と米と年貢による拘束であり,日本のシステムなのです。このシステムは強固です。中国で飢饉があったら食べ物を求めて大移動をするのではないでしょうか。どうして逃げ切ることができなかったのだろうと思ってしまいます。
しかしヤマセや干害,水害の連続では幕府も藩も政策も変更せざるを得ないでしょう。つまり減免の措置です。また,各藩ではこうした災害時の為に買米という備蓄制度も整えていました。しかし備蓄されたものを遥かに凌ぐ大凶作が続いていたのでした。農民は願書を書き,更なる減免を訴え続けました。願書はやがて命をかけた「渇命書」というものに変わっていきました。一揆資料を見ると,農民の言い分も随分と通っていますし,不正があった地頭や肝煎の処罰も時には厳しく行われています。つまりいつでも一揆に発展する状態にあったのです。

伊豆沼土曜8 156-2s
11/7土曜日の内沼

私が現在見ている資料は『岩手の百姓一揆集-盛岡以南-』北上市史刊行会(昭和51)です。
しかし飢饉の過酷さは並大抵のことではありません。寛延元年(1748)の「沢内逃散者の続出につき書留」という記録があります。
寛延戊辰元年十月閏有。田七分程,畑大違。小豆蕎麦種一切ナク,大根絶仙台ニ行者多シ。(注があります)仙台領に逃散者続出翌年の項を見るに寛延二年大飢饉で,「身を売り,仙台に行く者数知れず」とある。すなわち寛延元年には逃散が二年には身売りが多かった。
この頃には一揆禁制の布達は次々と出ていましたがあまり効力はないようで,厳罰化に拍車がかかっていたようです。次々と農民は逃走を始めていました。
サンカと呼ばれる人々が出てくるのは,江戸時代のこの辺りを言うようです。
後の安永六年,幕府の一揆禁制通達を見ると,「飛騨の国のもの共」「信濃国高井水内両郡之百姓共」とありますから全国に一揆の火は既に広がっていたようです。この時代に山に逃走して,山で生活し,後にサンカと言われる民となったと歴史上考えられています。
柳田国男は「山の人生」でこう言います。
サンカと称する者の生活については、永い間にいろいろな話を聴いている。我々平地の住民との一番大きな相違は、穀物果樹家畜を当てにしておらぬ点、次には定まった場処に家のないという点であるかと思う。山野自然の産物を利用する技術が事のほか発達していたようであるが、その多くは話としても我々には伝わっておらぬ。
冬になると暖かい海辺の砂浜などに出てくるのから察すると、彼らの夏の住居は山の中らしい。伊豆へは奥州から、遠州へは信濃(しなの)から、伊勢の海岸へは飛騨(ひだ)の奥から、寒い季節にばかり出てくるということも聴いたが、サンカの社会には特別の交通路があって、渓(たに)の中腹や林の片端(かたはし)、堤(つつみ)の外などの人に逢(あ)わぬところを縫うている故に、移動の跡が明らかでないのである。
このようなサンカと呼ばれた人々は季節によって移動し,竹細工,葛細工,籠,箕作りをして生活を立てていたのです。一個所に定住せず,戸籍もないという。この流動する民が日本のシステムから逃走する事実をつくっていった。それゆえ迫害にもさらされることにもなりました。

内沼文化の日 183-2s
11/3朝の飛び立ち

藤沢周平の「春秋山伏記」を読むと,村の子どもが「箕づくり」の夫婦にさらわれる「人攫い」という息詰まる最終章がある。サンカを想像させるように感じてしまいます。むしろサンカというイメージがそういった定住する常民と対立する考え方を歴史上してきたような偏見もあるのではないでしょうか。


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