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透明さへの希求

1230伊豆沼朝 051s
凍り付く朝

宮沢賢治はやたらと外へ出て歩き回った。
どうしてだろう。何を探していたんだろう。
一つには彼は「浴びること」に対する悦びがあったに違いない。
光を,雨を,風を,星の光を,雪を,冷気を・・・。
とにかく浴び続けたい。浴び続けることでいつも新しい自分の新しい境地を垣間見てみたいと思っていた節がある。

刻一刻と変わる自然の受け皿としての自分の記録がそのまま詩になる。
まるでこれは自分を無にして外の世界と一体化する行為である。ぬぐい去りたい自分があったからというわけではない。自分が透明であることを願っていたと思うしかない。外の世界をそのまま受け入れ,自分の中にそのままに取り入れるという仕草だ。それが「浴びる」という行為である。外界をそのまま受け入れようとするので,光量を制限するフィルターも持たないわけである。だからといって冷たいヤマセが吹けば育たない稲を見て悲しいのである。

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満開に雪降り積む

このように自然のすべてを浴び続けたいという欲求自体は実に自然なことでもある。
古来より人は何かある毎に自分によいものを迎え入れられるように祈ってきた。それらは山の方から水の流れを伝い,優しい色の春の芽吹きとなってやってきていた。人々はその生命力を喜んで迎え入れてきた。そして自分自身にもその生命力が宿るように願ってきた。そのような迎え入れ方には礼儀があった。自分自身が自然の神様を迎え入れる清らかさが必要であった。自分自身が隠すこともない透明な受け皿でなくてはいけなかった。清らかなものに清らかなものが宿るのである。隠しだてして汚れている者には宿らないのである。これが昔に生きていた人々の倫理でもあった。

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天の川

現代でも透明さへの希望は歪んだかたちで現れている。防犯カメラが犯罪を少なくしたとか,隠し立てした犯罪が暴露され,廃棄した食品が横流しされていた事実というように隠されてきたことが透明になることによってあからさまになっている。しかしこれらは社会における透明さであっていわば社会システムから強制される透明さでもある。賢治自身は自分に対しての透明さを個人レベルで考えていた。社会的には「でくのぼうとよばれ/ほめられもせず/苦にもされず」でもよいのである。彼は個人が透明であることを何よりも基本とした。

星ホタル
ホタルの夜

ではすべてのものを透明になってすべてそのままに受け入れる受け皿としての自分はどうあればよいのかと彼は考えた。すべてをさらけ出したり,無条件に受け入れるだけでいいのだろうか。
自分にもたらされるすべての自然なるものは嘘をつかないという信心が彼にはあった。自分が歪んでいては良いものが良いものとして入ってこないと言う。自分が歪んだフィルターを持っていてはいけない。もたらされるものが自分の欲望によって勝手に変換させてはいけないという信念があった。

栗駒212 268s
隙間なく降る雪

そう思えば賢治は普通の人でもあった。明治生まれのおばあさんと同じ透明さを持っていた。家族のために,そして豊年満作のために純真な気持ちで祈る人でもあった。



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