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名付けざるものたちの系譜 その二

飛ばない朝 127-2s
飛ばない朝

名付けられた者はこの世に刻まれる。自らが名で刻まれることで「呪」を受け,留め措かれ,固定される。識別され,認識され,区別され続ける。すべてそこから運動が生じ,人生も流れ始める。それらの運動の記録は記憶の沼に次々と沈んでいく。封じ込まれていくと言った方がよいのかもしれない。

名前を持つことで便利なこともある。不便なこともある。しかしこの世に投げ出された以上は自分の魂に責任はあるのではないだろうか。

しかしどうしても名付けることができないものもある。そう考えてみる。
気配,デジャブ,もたらされる不安,夢の意味,魂・・・。それらは存在して感じている。実感もしていることなのに分からない。

気仙沼線 431-2s
アトリ

漆原友紀の「蟲師」はそんな名付けられぬものを扱い,それらのものたちを「蟲」と称した。見えぬものもある見えるものもある。生命の原生体のようなものと言われる。それらは自然万物の中で,漂い,流れ,寄生し,制御し世界との関係づけを迫ることさえある。「蟲」を認識できない者,つまり普通の人には見えないし,また意味が分からない。「蟲」を認識できる者が更に研究し,異界や蟲の世界との接触を通じて特別な修行を積んだ者が「蟲師」と呼ばれる。

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「蟲師」HPからビジュアル映像

蟲師は山伏にも似ている,巫女にも似ている。口寄せにも似ている。折伏もするし,祈祷もするし,薬の調合も行う。
つまりいわれなく取り憑かれた者を除霊するのである。そんな名付けられることのなかったもの達を相手にしている。

ふとここで私は先回言ったように「魂」の運動ととても似ていることも思い出した。「魂は憧れやすく,うつろい易い」と折口信夫は言った。魂とは「器(うつわ)」である。何かが外から入ってくる。人々は良いものを入れたいと乞い願った。実り多きもの,幸せをもたらすもの。生命も,神も,豊作も,幸せも自分の魂に宿ることを願った。季節の祭りはそうした意味があった。よきものを迎える儀式である。花祭りも神楽もそうした意味で行われ続けた。

しかし同時に山からは神も下りてきたが,違うものも下りてくる。来て欲しくない者もやってくる。そんなときはやさしく迎え入れ,ごちそうもするがやんわりと出ていってもらうこともあった。出てきて欲しくないものは地に押し込めた。大地を踏んで押しとどめようとした。力足を踏むのである。大地に押しとどめ,湧き上がることを防ぐため「杖」を使っていた。空海が杖をつくことで聖水が湧き上がる。同じように悪いものを湧かせないように杖をつく。蟲師達も調伏に使う。

気仙沼線 272-2gs
雪降り列車行く

ポイントは全て山や海から流れを伝い,その里に訪れると言うことだ。蟲師達は連絡に光脈沿いのご神木と呼んでもよい木の「うろ」に手紙を入れる。そうすると光脈沿いに手紙は流れ,繭になってもたらされる。この光脈と言われるものが地場のエネルギーの鉱脈のことである。その光脈を探すのは特殊な才能を持つ者である。しかしそれらは現在もパワースポットとして断続的に現れ出ている。そしてその場所には水や川の存在が大きい。そしてその近くに立つご神木である。神が憑く依り代となった木である。柳田国男の言ったクロモジなのか,折口信夫の言ったタブなのかは分からない。しかしどちらもクスノキである。

飛ばない朝 164-2s
蔵だけが残った場所

私のような凡人はこのように山の頂から川に沿って下りつつ,古びた樹木を探しながらその風景を見るしかないだろう。そこは光脈筋であり,その古びた木のうろには蟲師達の手紙が入っているかもしれない。宮本常一のように風景を読み解く技術も必要かもしれない。

あまりに写真が氾濫しているこの世で,本当に霊性を写し込める写真であればいいと思う。そんな写真はすぐ分かる。見ることで心が幸せになるからだ。「蟲師」には「光酒(こうき)」という飲み物が出てくる。最高の飲み物であり,たちどころに病気はなおり,蟲は退散する。



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