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大船渡線陸中松川駅に下り立った宮沢賢治

ドラゴンレール 314-2-1gs
宮沢賢治が勤めていた東北砕石工場上から見た東北大船渡線陸中松川駅

大船渡線が一関駅から摺沢駅まで開業したのが1925年(大正14年)7月26日のことだという。

開業してまもなく陸中松川駅から貨物列車一両分の石灰細粒10トンが小岩井農場に送られた。鈴木東蔵の東北砕石工場からの念願の製品出荷である。ところが製品が着いてすぐ「粗悪で使えない」とクレームが来た。早速と石臼と石杵を持参して半月掛けて挽き直して納品した。
小岩井農場からの注文は工場にとって願ってもない大口の取引であった。その後も10月から翌3月まで400トンの石灰細粒を納め続けることとなった。しかし満足できる石灰細粒を納品し続けることはそれだけの機械設備が必要だった。すべて手作業で質の良い大量の石灰細粒を作り続けることは難しかったのである。そこでフレットミルを設置する提案が出たが,資金も何もなかったのである。工場主鈴木東蔵はその資金繰りに悩んだ。やっと2000円が工面できて設置したフレットミルを使って均一で細かく挽いた石灰細粒に小岩井農場が満足したのは昭和3年のことだったという。

ドラゴンレール 235-2s
手前に見える屋根が東北砕石工場。すぐ奥に陸中松川駅がある。
ここから石灰が積み出され送られていった。

昭和4年の春のことだった。
花巻の渡辺肥料店から前の年に石灰二車の注文があったのに,今年は注文がなく鈴木東蔵は確認のために花巻の渡辺肥料店を訪ねてみた。すると「宮沢賢治という人が肥料設計をして注文していたんですが,宮沢さん病気になって寝込んでいるんですよ。」と聞いた。鈴木東蔵はそのままその足で宮沢賢治をお見舞いに訪れた。
その時の出会いを弟清六氏は「兄のトランク」でこう書き記している。
昭和4年の春。朴訥そうな人がわたしの店に来て病床の兄に会いたいというので二階に通したが,この人は鈴木東蔵という方で,石灰岩を粉砕して肥料をつくる東北砕石工場主であった。兄はこの人と話しているうちに,全くこの人が好きになってしまったのであった。しかもこの人の工場はかねて賢治の考えていた土地の改良には是非必要で,農村に安くて大事な肥料を供給することができるし,工場でも注文が少なくて困っているということで,どうしても手伝ってやりたくて致し方なくなった。
そのために病床から広告文を書いて送ったり,工場の拡張をすすめたりしていたが,だんだん病気も快方に向かってきたので,その工場のために働く決心を固め,昭和6年の春からその東北砕石工場の技師として懸命に活動を始めたのである。
賢治は全く鈴木東蔵が好きになってしまったのであった。
そして好きになった人にはなんでも手を貸したいという人が宮沢賢治であった。

そして昭和5年9月13日。
宮沢賢治は大船渡線に乗って陸中松川駅に初めて下りたって,東北砕石工場を訪れたのでした。



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