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日目上人の出自2

夜汽車3-2gs
夜汽車

日目上人は文応元年(1260)静岡県仁田郡畑郷で生まれた。
母の故郷がこの地であるということもあるだろう。新田氏二代目の五郎重綱の五男坊だった。幼少,日目上人は虎王丸と呼ばれていた。
父重綱は鎌倉で死去したようであるが,その時虎王丸は五歳だった。十三歳の時,走湯山円蔵房に登った。翌年円蔵房身延山より日蓮上人の高弟日興が訪れ,学頭式部僧都と宗法の論争をした。虎王丸は日興の説話に感動した。十七歳の虎王丸は日蓮上人の近くに仕えた。
その日蓮が亡くなったのは弘安五年(1282)11月の下旬であったという。享年61歳だった。

日目は日蓮の没後の法要を済ませ,母を静岡に訪ねた。そして兄頼綱がいる奥州三迫新田へ向かった。

慶長以前北上川
慶長以前の宮城北部の河川図

さてどうして奥州の三迫新田(にいだ)なのか。
新田氏初代鎌倉御家人新田太郎重房が三迫新田郷(現中田町宝江新井田)の領主になったのは,頼朝も死に,承久の乱後守護地頭の大幅な配置替えがきっかけではないかと言われている。貞応二年の新補地頭の得分あたりと姉歯量平氏は推測している。この時,重房は初めての領地を得た。奥州三迫新田郷の領主になった。その子どもが日目上人の父新田氏二代目五郎重綱である。既に兄頼綱が領主としていた。

12月最後の日曜 743-2s
春の光

日目は歓迎され,各所に講義所を開いたという。新井田に大石寺末寺の本源寺を創建,近くの森にも上行寺を創建している。その頃,日目の師日興は身延山を去り,静岡県富士宮市に移り,大石寺本山の創建を進めていたのでした。その手伝いもあってか,一旦大石寺に戻る。そしてまた弘安八年から奥州に来ている。布教にも力が入り,一迫町柳目に妙教寺,築館町宮野に妙円寺を創建している。
この頃からの日蓮宗の板碑は周辺の地域一帯に存在して現在でも見ることができる。


この次は遠野に残る不思議な呪文,「阿字十方三世仏 弥字一切諸菩薩 陀字八方諸聖経 皆量阿弥陀仏」という呪文を考察した山形の竹田賢正氏の論文「板碑偈文「阿字十方」の伝承系譜について」(『山形県地域史研究』14 1989)から導き出した日蓮宗に転宗した高野聖によってもたらされた可能性を解説してみたいと思います。



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