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不思議な呪文-六部という可能性-

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春の予感

六部というのは諸国を巡り,法華経を写し,納経して歩く修行僧のことを言い,全国六十六か国の霊場に納経するので六十六部とも言われた。簡単に言って六部としている。廻国聖,遊行聖のことでもある。このことは既に藤原道長の金峰山納経(寛弘四年1007)の記録があり,前世で箱根法師が六十六部の教典を六十六か国に納めた功徳によって,次の世では北条時政に生まれ天下をも取ったという伝説がある。

私が西行や一遍や是信,日目という東北にやってきた有名な僧を取り上げたけれど,遠野の座敷念仏に残っていた「阿字十方三世仏 弥字一切諸菩薩 陀字八方諸聖経 皆量阿弥陀仏」という神呪経の一節がどのように遠野にもたらされたのかについて,今回最も可能性のあるのが六十六部でもあると感じている。この呪文については山形の竹田賢正氏が「板碑偈文「阿字十方」の伝承系譜について-民衆念仏信仰研究の一視点として-」で,日蓮宗に改宗した高野聖の存在を挙げている。

これらの土台から考えて,宮城県の六十六部の板碑を見てみたい。
すでに元徳三年(1331),元弘四年(1334)の六十六部接待の廻国供養塔がある。全部で35基が確認されている。

宮城県の廻国供養塔
西暦場所
1331名取・上余田
1324高清水・影の沢
1690仙台・新坂通
1708名取・飯野坂
1711宮城・倉内
1711石巻・袋谷地
1712矢本・舘下
1720白石・長袋
1720鳴瀬・浜市
1721亘理・小山
1722村田・沼田
1726村田・沼田
1732仙台・東仙台
1735鳴瀬・浜市
1738大郷・味明
1745仙台・荒巻
1747松島・瑞巌寺
1748仙台・宮町
1751松山・境
と続き1856年まで計35基の廻国供養塔が確認されている。(このデータは「六十六部供養塔と仙人宿供養塔」渡辺菊治から転載)

廻国供養塔には二種類ある。実際に廻国した六十六部達が建てたものとその六十六部達を宮城にて宿や食事を提供したりして,助けた篤志家の家が建てたものとある。現地で六部達を助ける家は善根宿と言われた。
この建立年を見ると,1300年代が二基,その後300年間はないのである。そして1690年に再現,以後57年間で十五基,次の50年間で八基,次の56年間で七基,明治以後は廻国が禁止されたのか見当たらない。

ちなみにどんな銘文だつたのか。元徳三年(1331)名取市上余田の銘文を写してみます。
      右為六十六部旦那四十八日念仏
バン   元徳三年辛未十一月十五日
      余田政所 浄空禅門也
という四十八日の念仏満願の記念で建てられた物。今度は栗原高清水町影の沢の銘文も見てみましょう。
      アク       右志者為六十六     弥源次入道 敬
キリーク バン ウーン 部接待供養故也    元弘四甲戊季光中旬
      ア        早出六道苦城由     弥次郎入道
               遍し證三菩提妙也    白
と接待供養として建てたもの。いわゆる奉納する霊場のルートにある篤志家が善根宿となり,このような接待することも功徳を積むことだったわけです。


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春の光

写真があればいいのですが,昔,遠野小友にある山谷観音を訪れた後,小友峠にさしかかった山の中にそれは大きな廻国供養塔があったことを思い出します。
 では一体納経する霊場とは東北ではどこだったのでしょうか。納経所はその国の一の宮とされている所で,陸奥国塩釜神社,羽州羽黒神社,常陸,下総,上総,安房,武蔵,相模,豆州,駿州,信濃,越後,佐渡,三河,尾張,但馬,丹後・・・肥前,肥後と続く。

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遠野では十月仏や様々な信仰が溶け合うような形で残っています。
ここで「遠野物語九十一」に六部の話が出てきます。
附馬牛村のある部落の某という家では、先代に一人の六部が来て泊って、そのまま出て行く姿を見た者が無かったなどという話がある。近頃になってからこの家に、十になるかならぬ位の女の児が、紅い振袖を着て紅い扇子を持って現れ、踊りを踊りながら出て行って、下窪という家に入ったという噂がたち、それからこの両家の貧富がケエッチャ(裏と表)になったといっている。その下窪の家では、近所の娘などが用があって不意に行くと、神棚の下に座敷ワラシが蹲まっていて、びっくりして戻って来たという話がある。
「先代に一人の六部が来て泊って、そのまま出て行く姿を見た者が無かった」というくだりです。六部が一人泊まった家からは,その六部が出ていく姿を見なかったということです。これは六部がそのまま死んでしまったか,殺されたのかという話になっていきます。
 遠野にはこのような六部殺しの話がよくあるそうなのです。そしてその話と祟りと幽霊屋敷とつながって心霊スポットになっていることもあるそうです。それどころかこのような六部殺しの話は小松和彦氏によれば,広く全国にあるそうです。

いずれにせよ六十六部の廻国修行は体力的にも,精神的にも厳しいもので石碑から判断してもいつも一人ではなく,グループをつくったり,中には夫婦が参加したりして俗人も入っていたといいます。その厳しい修行の旅先で病を得て死んでしまった人もいるそうです。そんな六部の厳しい倹約的な動きは一つの特別な雰囲気をつくっていて,世間の人々の目にはどのように写っていたのだろうと考えると特殊な存在に見えたのかもしれません。

竹田氏の「日蓮宗に改宗した高野聖」,六部,時宗,修験と一気に攻勢をかけたように国中に広がった宗教の嵐はまたたく間に庶民に浸透していきました。インターネツト並の情報ネットワークと情報戦争が全国にもたらされていたと思います。歩き回る修行僧達の活躍した中世という時代は私たちが考えるよりもずっとフロンティア精神に満ちあふれていたと思います。



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