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賢治と鉄道2-樺太行-

未明のカシオペア-2gs
3/19カシオペア上り3:41に伊豆沼を通過

今年,風景や星景,山ばかりの写真を撮っていた私が,風景の中にある鉄道の魅力に目覚めてしまいました。

しかし全くの我流そのものです。大体が,肝心な鉄道に対する知識もあまりありません。そこで知っている方には私の写真は快く写らない所もあるでしょう。なにせ撮り鉄の常識やマナーは皆無と言っていいでしょう。気付いた方はご指摘いただければ幸いです。

さて今日はカシオペアの上野発下りのラストランとなりますね。
全く納得した写真が撮れないまま今日を迎えてしまいました。しかし,ここ10日余り上り下り両方見ています。今日は午前3時に上りが行きましたから夜は9:40前後と,一日二回のカシオペアの日です。上の写真が今日朝3時のカシオペアの通過です。

ドラゴンレール 194-2gs
大船渡線

さて,今日は賢治と鉄道の2回目です。
取り上げる内容は宮沢賢治の樺太行です。
1923年(大正12)7月31日が樺太に旅発った日でした。賢治27歳の年です。前年の1922年(大正11)11月27日妹トシが亡くなりました。それから半年,賢治は詩も童話も,手紙も書けませんでした。
賢治の一生を眺めると,この妹のトシが亡くなってから半年後の,この樺太行きは山で言えば大きな尾根を成すほどの出来事であり,賢治の心情が直裁に表われている出来事と言えるでしょう。何よりもただの旅ではなく,北の果てで,死んだ妹トシとの魂の交信を試みた旅でした。
「校本 年譜」(現在は新校本が出ています)から樺太行の日程を載せます。
7/31(火)花巻駅午後2時31分乗車,青森,北海道経由樺太旅行へ出発。
農学校生徒瀬川嘉助,杉山芳松(大正13年3月卒業)の就職を豊原市王子製紙株式会社細越健(盛岡中学大正4年卒業,盛岡高等農林学科大正8年卒業)に依頼する目的があったが,トシとの交信を求める傷心旅行である。
以下日程だけを抜き書きします。
8/1(水)午後12時半発連絡船で海峡を渡り,5時函館に上陸。札幌,から旭川へ
8/2(木)朝,旭川の農事試験場を訪問。後,稚内へ。稚内から樺太行き大泊行き連絡船に乗る。
8/3(金)樺太大泊に着く。大泊から汽車に乗り,豊原市へ着く。ここで細越健氏に会う。
8/4(土)豊原市から栄浜へ
8/5(日)不明
8/6(月)不明
8/7(火)鈴谷平原到着。植物採集をした。
8/8(水)不明
8/9(木)不明
8/10(金)不明
8/11(土)未明,詩「噴火湾(ノクターン)」
8/12(日)盛岡まで来て,徒歩で花巻へ帰る。

日程紹介だけで長くなりますが,本題は「賢治は花巻を何時の汽車で出発したのか」ということについてです。
「賢治は花巻を何時の汽車で出発したのか」
既にこのように記しました。
7/31(火)花巻駅午後2時31分乗車,青森,北海道経由樺太旅行へ出発。
これは本当に正しいのかという疑問があるのです。
それは「青森挽歌」という詩があり,その詩の描写と実際の時刻等が合っていないという疑問があるのです。賢治の詩はその時その瞬間の景色や心に浮かんだことを折り合わせるように,そのままに正確に描写していることが特徴です。例えば「小岩井農場」もそうです。賢治文脈はこの景色と心の景色が織り合わされていることが面白いのです。それを前提に考えると「青森挽歌」の冒頭部分と「花巻駅午後2時31分乗車」と合わないのです。「青森挽歌」の冒頭を引用しましょう。
 青森挽歌
   

   こんなやみよののはらのなかをゆくときは

   客車のまどはみんな水族館の窓になる

      (乾いたでんしんばしらの列が

       せはしく遷つてゐるらしい

       きしやは銀河系の玲瓏(れいらう)レンズ

       巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる)

   りんごのなかをはしつてゐる

   けれどもここはいつたいどこの停車場(ば)だ

   枕木を焼いてこさえた柵が立ち

      (八月の よるのしづまの 寒天(アガア)凝膠(ゼル))

   支手のあるいちれつの柱は

   なつかしい陰影だけでできてゐる

   黄いろなラムプがふたつ点(つ)き

   せいたかくあほじろい駅長の

   真鍮棒もみえなければ

   じつは駅長のかげもないのだ
「こんなやみよののはらのなかをゆくときは/客車のまどはみんな水族館の窓になる」という冒頭は明らかに夜の描写です。午後2時51分発では早すぎるわけです。そこでこの詩の描写を元にすると次のように考えられます。

1 賢治は「花巻駅午後2時31分発」に乗ったが,盛岡で途中下車して,盛岡で夜になる汽車に乗った。

2 賢治はもともと「花巻駅午後2時31分」の汽車に乗らなかった。もっと遅い時刻の汽車に乗ったはずだ。

仙人峠行き 110-2s
賢治が「銀河鉄道の夜」をイメージしたと言われる釜石線宮守橋

どちらが正しいのかということになります。
まず全集の年譜の「花巻駅午後2時31分乗車」の根拠は一体何だろうということになります。記録はありません。ここで当時の鉄道時刻表を見ましょう。「大正十二年七月 公認汽車汽舩旅行案内」p174-175です。これは萩原昌好の「宮沢賢治「銀河鉄道」への旅」の推測です。青函連絡船との接続を考えると,計7本あった青森行きのうち,次の三本に絞られるといいます。

A 上野発午後11:00 花巻発午後2:28 盛岡発午後3:28 青森着午後10:10(この汽車が全集の示していた汽車)
B 上野発午前6:25 花巻発午後9:59 盛岡発午後11:08 青森着午前5:20
C 上野発午後1:00 花巻は停車せず  盛岡発午後11:34 青森着午前6:30(もし途中下車して盛岡から乗る場合も考えると)
Aの汽車の場合,「青森挽歌」と描写が合わない部分が出てきます。Bの汽車に乗れば,朝の7:55の青函連絡船に乗って,「津軽海峡」の描写に合います。時刻表を見ると青函連絡船は4時間20分で函館に着きます。
このようにして,乗った時刻と作品群の描写と一致させる考えが,萩原氏,ますむらひろし氏,入沢康夫氏などによって提案されています。
それでは,全集の年譜の「花巻駅午後2時31分乗車」の根拠とは一体何でしょうか。
向井田重助という賢治の高等農林の後輩と好摩から八戸まで車中で同席していたという記録です。向井田重助の「賢治と私」の文章はこう始まります。
「賢治と私」向井田重助
大正12年の夏,車窓の景色を楽しみながら私は東北線を北へ進んでいた。当時,私は岩手県庁山林課に勤めていて,県北の山林調査に出張の途中だった。好摩から沼宮内に差しかかったころ一人の青年が《デッキから外をのぞき詩らしいものをうなっていた。》このひとこそ宮沢賢治さんかと気付き,名刺を出して・・・(以下略)
決定的な証言です。これを考え,全集の年譜はAの昼の「花巻発午後2:28」乗車説を取ったわけです。「大正12年の夏,車窓の景色を楽しみながら」とあるので景色が見えている昼というわけです。しかし入沢康夫氏や萩原氏,ますむら氏の考察によって,この文章は違うときと一緒になっているのではないか。と推理されているのです。

文が長くなってしまったので,また後で話すとして,萩原氏の結論は,Bの「花巻発午後9:59 盛岡発午後11:08 青森着午前5:20が合う」と推理しています。 それにしても鉄道の方から見ると,賢治の旅したルートは開発の最先端をよく知っていて取ったルートだと思います。「銀河鉄道の夜」の原型は「青森挽歌」にもう表われていると考えられます。

この話はつづきます。



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