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賢治と鉄道-樺太行き その二-with カシオペアラストラン

ラストラン薄明-2彩度-g2s
カシオペア上りラストラン3/21 3:41 伊豆沼を通過(新田-石越間)
を流した写真ではなく20秒間の空とカシオペアを組み合わせました。

カシオペアの運行が終わり,なんか放心状態です。
夜の景色を撮ることが多かった私がカシオペアを魅力に感じたのは,暖色のオレンジ色の強い灯りが魅力だと気付いてからでした。その温かみのある灯りは北斗では見られない色合いでした。12号車まである車両はとても長く感じられました。夜の中を走るカシオペアを私は「暖色のライン」と言いましたが,寒冷な東北・北海道の冷たい夜を彩る憧れの色でした。

さて,今日は賢治と鉄道というテーマの,「賢治の樺太行き」の2回目です。
1923年(大正12)7月31日が樺太に旅発った日でした。賢治27歳の年です。前年の1922年(大正11)11月27日に妹トシが亡くなりました。それから半年,賢治は詩も童話も,手紙も書けませんでした。そんな中,賢治は樺太に旅発ったのでした。
「校本 年譜」には次のように書いてあります。
7/31(火)花巻駅午後2時31分乗車,青森,北海道経由樺太旅行へ出発。農学校生徒瀬川嘉助,杉山芳松(大正13年3月卒業)の就職を豊原市王子製紙株式会社細越健(盛岡中学大正4年卒業,盛岡高等農林学科大正8年卒業)に依頼する目的があったが,トシとの交信を求める傷心旅行である。
つまり教え子の就職の依頼と死んだ妹トシとの交信を試みるために樺太に行くという目的があったのです。

日曜のカシオペア 360-2gs
一回乗ってみたかったカシオペアスイート1号車47720円  撮影は一関駅

ところが「青森挽歌」というこの樺太行きの中で綴った詩とこの列車に乗って見える情景に1行目からずれが生じるのではないかと考えて,作品の描写と列車の通過時刻とを比べて考察したのが萩原昌好氏の「宮沢賢治「銀河鉄道」の旅」です。「こんなやみよののはらのなかをゆくときは/客車のまどはみんな水族館の窓になる」と始まる青森挽歌の冒頭から,夜中の描写です。しばらくすると駅長もいないような駅を通過します。深夜に関連する描写が続くわけです。 「花巻駅午後2時31分乗車」とは決定的に合わないと言うのです。当時の時刻表と「青森挽歌」の描写を照合させていくと「花巻発午後9:59 盛岡発午後11:08 青森着午前5:20が合う」という予想を立てました。確かに「花巻発午後9:59」に乗ると詩の描写された情景と合うのです。
花巻発午後9:59
盛岡発午後11:08
青森着午前5:20
そして,青函連絡船に乗るのです。年譜には次のように書かれています。
8/1(水)午後12時半発連絡船で海峡を渡り,5時函館に上陸。札幌,から旭川へ
8/2(木)朝,旭川の農事試験場を訪問。後,稚内へ。稚内から樺太行き大泊行き連絡船に乗る。
8/3(金)樺太大泊に着く。大泊から汽車に乗り,豊原市へ着く。ここで細越健氏に会う。
8/4(土)豊原市から栄浜へ

Tsushima_Maru_1905.jpg
賢治が乗船した稚内から樺太に行く連絡船「対馬丸」 写真はwikiからの転載

年譜の「午後12時半発連絡船で海峡を渡り,5時函館に上陸。」は正しいのでしょうか。
朝の5:20に青森駅に着いています。年譜に依ると,半日青森駅にいることになります。スタートがずれたのですから,連絡線の乗船についてもずれてきます。青函連絡船には朝一番の7:55が合うと言います。これは何よりも作品「津軽海峡」にも合います。連動して,後に立ち寄る旭川について書かれた作品「旭川」の描写とも合っていきます。
さて,青函連絡船の青森発は当時一日3便あり,① 午前7:55発 函館着午前12:25,② 午後4:45発 函館着午後8:15 ③ 午後11:55発函館着午前6:10の三便です。当然5:20に着いたので,用事がない限り,朝一番の,① 午前7:55発 函館着午前12:25に乗船します。
青函連絡船       青森発午前 7:55 8/1 作品 「津軽海峡」
               函館着午前12:25 8/1
函館本線         函館桟橋発13:45 8/1
小樽,札幌,岩見沢   旭川着 4:55 8/2 作品「旭川」
   旭川農事試験場見学
宗谷本線 急行1号  旭川発   11:54 8/2 
稚内着   21:14 8/2
稚内・大泊連絡船   稚内発   23:30 8/2 作品「宗谷挽歌」
大泊着    7:30 8/3

ただこれは遅れが生じなくて連絡がスムーズにいった場合です。当時稚内も,大泊も着岸桟橋がなかったようで,客艀(きゃくはしけ)を使って船に乗ったり下りたりしたようです。

311の夜カシオペア-2gs
3.11の夜 伊豆沼通過(新田-石越間)

賢治が旭川から乗った宗谷本線は,賢治が旅行した年に全通しており,稚内大泊連絡船も就航を開始したばかりでした。
つまり樺太という最北への道が開かれた年にすぐ賢治は出掛けているわけです。「トシと交信する場所がなぜ樺太でなければいけなかったのか」と尋ねると,拓かれた極北の土地,樺太こそが死んだ妹と交信できる最適な場所だと考えることは自然なことだと思います。
賢治が鉄道好きだというのも,こんな最新情報を逃さず新天地に出掛けていくところです。

カシオペア0317_車体-2_fused-2-1gs
とカシオペア 伊豆沼通過(新田-梅ヶ沢間)

次回はいよいよ栄浜での,死んだ妹トシとの交信について話します。



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