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観察眼と言われることについて

栗駒湿原に再会 324-2s
ブナの葉残る

またうろうろとブナの林を歩きながら感じたことを書きます。

目的もなくぶらつくという歩き方の効用は様々な発見の糸口をつかむのに実に適しています。

私たちの生活はどうしても目的に対してどのように効率的に処理していくかという流れで考えますから,目的が叶う世界の中にいて,いらないことは大胆に捨てることもあるのです。結構自分の目的のために他の人の意見も聞かないということもしばしばです。仕事でも家庭でもこんなことはよく起きていて,あるときに致命的な亀裂になって出てくることもあります。例えば今頃の残雪が多い時期に起伏の少ない山を歩いていると迷うのです。すると,自分勝手にこっちは来たからあっちだと思い込みの論理が働き始めます。世界を勝手に自分流に眺め変えてしまい,さらに堂々巡りに陥ることがあります。

そこで私自身は基本として,来た自分の足跡を忠実に戻ること。次に違う道に入ってから戻った時にストックで大きく×印をつけておいてまた道をそれてしまわないようにすること。通過した場合に見た特徴のある木には色テープをつけておくこと。湿原を見つけたりしてルートから外れる場合には出だしのポイントをしっかり目に焼き付けておいて,その方向から見た写真を撮っておくことなどして少しずつ練習を重ねてきました。もちろん地図やコンパスも使って確認することも心掛けます。こんな確認作業を身に付けることでちょっとずつ雪のある山ややぶこぎにも慣れていきました。しかしあえて必要もないのに危険な歩き方をしないことが一番です。
安全に歩くことで観察眼も養われていくことでしょう。例えば残雪のブナ林を歩いていてどんなことを見つけて,どんなことを思ったのかを紹介しましょう。早春の山を歩くとなんと言っても目に着くのが,動物たちの残したものです。足跡,糞,食痕,引っ掻いた跡・・・。そんなものが目に着きますね。

次の動物の足跡を見て下さい。

栗駒湿原に再会 465-2s
イタチやテンのような足跡ですね。

ウサギの足跡のようにTの字型です。しかし前に並んだ足は後ろ足なのでしょうか。どうもジャンプしながら進んでいるようです。後ろの足跡には左が前,右が後ろとクロスしたような感じがします。後ろの右が先に着地してすぐ前の左が次に着地したのではと思わせます。そこではっきりしないので,進行方向の足跡を見てみました。次の写真です。

栗駒湿原に再会 468-2s
次の足跡

後ろの足跡を見ましたか,一枚目の写真と足の置き方が左右逆ですよね。足の蹴り方や着地の仕方が右左(みぎひだり)次は左右(ひだりみぎ)と交互に蹴ったり,着地していることが分かります。こんな当たり前でくだらないと思われる発見が次の疑問へのステップになるのです。これが観察眼を養うこととなります。
ファーブルもこのような観察眼の鉄人でした。ファーブルと言ったら「昆虫記」ですが,案外知られていませんがファーブルの「植物記」も私はすごいと思います。観察眼のある人は,昆虫でも,植物でも,動物でも的確に観察することが出来ます。随分前に紹介した串田孫一も鋭い観察眼の持ち主でした。こういう人達は学者や研究者だけでなくてもたくさんいます。自然が好きだという人たちです。大航海時代から18世紀の博物学の時代のアカデミーの論争は世界を秩序だった知でまとめ上げるという知的好奇心に飲み込まれていた時代でした。今読んでもわくわくすることがたくさんあります。

例えば高村光太郎の「山の雪」は中学校の教科書にも載っていた時代がありました。
(前略)ヤマウサギの足あとで、これはだれにでもすぐわかる。いなかにすんでいた人は知っているだろうが、ウサギの足あとは、ほかのけもののとちがって、おもしろい形をしている。ちょうどローマ字のTのような形で、前の方によこに二つならんで大きな足あとがあり、そのうしろに、たてに二つの小さな足あとがある。うしろにあるたての小さい二つがウサギの前あしで、前の方にある大きいよこならびの二つがウサギの後あしである。ウサギの後あしは前あしよりも大きく、あるく時、前あしをついて、ぴょんととぶと大きな後あしが、前あしよりも前の方へ出るのである。このおもしろい足あとが雪の上に曲線をかいてどこまでもつづく。その線がいく本もあちらにもこちらにもある。小屋のそとの井戸のへんまできていることもある。井戸のあたりにおいた青ものや、くだものをたべにきたものと見える。
 そのウサギをとりにキツネがくる。キツネは小屋のうしろの山の中にすんでいて、夜になるとこのへんまで出てくる。キツネの足あとはイヌのとはちがう。イヌのは足あとが二列にならんでつづいているが、キツネのは一列につづいている。そしてうしろの方へ雪がけってある。つまり女の人がハイヒールのくつでうまくあるくように、一直線上をあるく。四本のあしだから、なかなかむずかしいだろうとおもうが、うまい。キツネはおしゃれだなあとおもう。(中略)キツネがあるくと、カラスがいればさわいで鳴くからじきわかる。
 ウサギや、キツネのほかに、イタチの足あと、ネズミの足あと、ネコの足あと、みんなちがう。ネズミの足あとなどは、まるでゆうびん切手のミシンの線のようにきれいにこまかく、てんてんてんてんとつづいて、さいごに小屋のえんの下のところへきている。これは二列になっていて、雪がうしろへけってない。イタチのも二列。
 おもしろいのは人間の足あとで、ゴム靴でも、地下足袋じかたびでも、わらぐつでも、あるき方がひとりひとりちがうので、足あとをみると誰があるいたかたいていわかる。大またの人、小またの人、よたよたとあるく人、しゃんしゃんとあるく人、前のめりの人、そっている人、みなわかる。わたしの靴は十二文という大きさなので、これは村でもほかにないからすぐわかる。ゴム靴のうらのもようでもわかる。あるき方のうまい人や、まずい人があるが、雪の中では小またにこまかくあるく方がくたびれないといわれている。両足をよこにひらいてあるくのがいちばんくたびれるようだ。靴のかかとをまげる人のもくたびれそうだ。これはからだのまがっている人、内ぞうのどこかわるい人のだ。
足跡だけで内蔵が悪いことまで分かる。たかが足跡だが,されど足跡である。まさにシャーロックホームズ的な推理がなりたっていくのです。これが観察眼というものでしょう。
次の写真を見て下さい。

栗駒湿原に再会 519-2s
池塘の雪解け

私たちは広範囲の景色を一瞬にして見て様々なことを判断しています。幾分池塘の水の反射や写り込みといったものや中島があること,池塘の広さ,奥の樹木はブナだろうか。と言ったものに注目して,写真の世界を読み込んでいきます。そしてそれによって引き出される感情も体感しています。暗い景色だ等々。
着眼点が違うとその人の理解や共感の度合いも最初から違ってきます。観察眼というものが,見たその人の作品の味わい方を根底から決定してしまっているのです。これはとても大きなことです。ただ見て,ピカソがさっぱり分からない。興味があってピカソのことを知って,作品を見に行ったでは全く違う理解となるでしょう。観察眼が養われていく過程が,人のものの考え方,人生のとらえ方まで左右することとなります。

ここでさっき見た池塘の写真の上のブナだけ切り取ってみましょう。

栗駒湿原に再会 519-2-1s
ブナ林

まったく違った印象になると思います。
全体を一瞬にして見て判断している動物としての私たちが,改めてしぶとく世界をじっくりと眺めることでぐっと印象が違ってきます。つまり写真,絵画,映画と言われるビジュアル系だけでなく,文学や詩でも,ゲイジュツはある面で作者は深さが要求される使命を負っていることということなのです。作り手はいつもそんな追究性が試されていて,見る側は作り手と渡り合う程の観察眼が駆使されることで「作品の快楽」がこの世に生まれていくこととなるのでしょう。



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