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マリヴロンと少女

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伊豆沼霧の朝

タチアオイの一番上の花が咲いたときに梅雨は明けると言われていますが,そこここのタチアオイが一番上の花が咲き始めた昨日梅雨が明けたというニュースが流れました。昨日こちら宮城でも一番の暑さを感じました。いよいよ本格的な夏です。

さて今日は久し振りに宮沢賢治の話をしたいと思います。賢治の「マリヴロンと少女」の話です。この「マリヴロンと少女」という作品は文庫本でも5ページにも満たない短編ですが,先日「宮澤賢治の詩の世界」というブログの7/10の記事「マリヴロンと虹」を読んで興味を持ちました。(その記事は こちら )

そこで原稿を見ますと「めくらぶどうと虹」の原稿の上にタイトルを消して「マリヴロンと少女」が書かれていたのです。ほぼ設定は同じです。ただ,めくらぶどうと虹の対話がマリヴロンという歌手とアフリカに行くという少女の対話にそのまま置き換わっているのです。しかし美しい描写は変わりません。

マリヴロンと少女原稿トリ
「マリヴロンと少女」の原稿 赤いペンで「めくらぶどうと虹」のタイトルが消され,上書きされるように書かれています。

しかし私が「宮澤賢治の詩の世界」というブログの7/10の記事「マリヴロンと虹」を読んで特に興味を抱いたのは,妹トシの死後に改作されたこの作品にトシの死を乗り越えようとする賢治自身の煩悶と苦悩が反映されているのではないかという読みについてです。例えば1924.7.17に書かれた「薤露青」という作品には

                 
  ……あゝ いとしくおもふものが

       そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが

       なんといふいゝことだらう……

と書かれています。この「なんといふいゝことだらう」とまで言える賢治の妹トシの死という悲しみからの脱却はどのようにしてなされたのだろう。どんな考えの経緯があって「いゝことだらう」という思考まで達したのか,と問いを立ててみることは大切な問題のように思えます。この「めくらぶどうと虹」は1921年頃の作品で,「マリヴロンと少女」は1926年の作品と言いますからトシの死の後に改作されているわけです。すると自然とトシの死を乗り越えたと思われる考えが改作の中に現れ出たり,滲み出しているのではと思われたのです。

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霧の朝

「マリヴロンと少女」は,とある城あとの真ん中にある四つ角山の上が舞台です。秋のある日,にわか雨が上がって,空に虹がかかっている風景の中で始まります。牧師の娘で明日はアフリカへ行ってしまうという少女が楽譜を持って虹を見ています。そこに今夜市庁ホールでコンサートをする歌手マリヴロン女史がやってきます。二人とも虹を見上げて話をします。少女は優れた歌手であるマリヴロン女史を慕っていて,着いていきたいと思っていたのです。

「先生どうか私のこころからうやまいを受け取って下さい。わたしはもう死んでもいいのです。」
「どうしてそんなことをおっしゃるのです。あなたはまだお若いではありませんか。」
「いいえ,私の命なんかなんでもないのでございます。あなたがもっと立派におなりになる為なら私なんか,百ぺんでも死にます。」
マリヴロン女史は少女のことをギルダと呼びます。

やっぱりこんな会話は賢治独特の雰囲気です。

「正しく清くはたらく人はひとつの大きな芸術を時間の後ろにつくるのです。向こうの空を一羽の鵠(くぐい-白鳥のこと)が飛んでいきます。鳥はうしろにみなそのあとを持つのです。みんなはそれを見ないでしょうが,私はそれを見るのです。」

「おんなじようにわたくしどもはみなそのあとにひとつの世界をつくって来ます。それがあらゆる人々のいちばん高い芸術です。」

「連れて行ってください。」と少女は言います。
「いいえ私はどこへも行きません。いつでもあなたが考えるそこに居ます。すべてまことの光の中に一緒に住んで一緒に進む人々はいつでも一緒にいるのです。」「マリヴロンと少女」
この文章は「めくらぶどうと虹」とでは
いいえ私はどこへも行きません。いつでもあなたのことを考えています。

〈いつでもあなたのことを考えています〉から〈いつでもあなたが考えるそこに居ます〉への変化こそ賢治のトシへの思いの変化ではないでしょうか。最も変わっている部分と言ってもいいかもしれません。〈いつでもあなたのことを考えています〉という利己的な願望から〈いつでもあなたが考えるそこに居ます〉への確信は,あきらめることを強いられた賢治が遍在する魂としてトシをそこここに見いだせるという確信に至る苦悶の果てに見いだした摂理といっていいのかもしれません。仏教の教えをそのまま自分の苦しみを超える原理として自らが体現した証拠とも受け取れます。
「薤露青」の中の         
  ……あゝ いとしくおもふものが

       そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが

       なんといふいゝことだらう……

と書かれています。この「なんといふいゝことだらう」とまで言えた賢治は,妹トシを遍在する魂の痕跡としていたる所に見いだすことができる確信を得て,探すことをやめたのかもしれません。

考えるそこにトシは居る。



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