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紅葉の朝-親鸞の他力とは-

栗駒紅葉 173-2s
日の出に浮かび上がる紅葉

以前の記事で吉本隆明の「親鸞」は名作に入るのではないかと書きました。あれから何回か読み,あまりにも自分の単純な浅はかさ加減を思い知らされた気がしました。それほど親鸞の行き着いた地平は実に厳格だったと思い知らされました。

親鸞
「親鸞」吉本隆明

まず私たち「凡夫」と言われる一般人は何か道徳的に,良い事を行えば極楽に行ける的な考え方がどこかにあって生活をしています。多くはそうした「積善信仰」と言われている心持ちが信仰の基盤になっています。小さな善をこつこつと重ねることで自分の罪が洗い清められ,成仏への道が開けていく。神仏を敬い,先祖を敬い無心に拝むことも大切です。その無心さゆえに人の心を打ち,願いが遂げられることもありました。お言葉に,歌に,儀式に,一人の祈りの言葉に,念仏に,ひたすら無心に人は追い続けてきたものがあります。

しかし親鸞はそんな楽観的で,健康的な信仰の姿が本当に成仏の保証となるのか,欲で成仏を願うことは不遜な行為ではないか,念仏を唱えることは確かに悪いことではない,しかしそれが本当に極楽にたどり着く保証となるのだろうか。仏道に仕える者が修行し,念仏を唱えるだけで極楽に行けると教えて果たして良いものだろうか。人間の行うことは私欲以外の何において仏の教えに叶うと言うことができるのでしょうか。突き詰めていけば,何もはっきりとした往生の道はないのです。親鸞はそこを突き抜けていきました。そのような疑問の答えを個々の信仰の責任の中に丸投げして,投機しているだけに過ぎないとしたら。

或る僧が親鸞に言いました。「わたしもたまに念仏を唱えることに迷いが生じます」
親鸞は答えました。「わたしにもそのようなことがあります。そうした時には休むことです。」

何を一生懸命に信じて行ってもそれが仏の道である保証はない。

親鸞の究極の言葉は続きます。
「面々(おのおの)の計(はかり)りごとなり」

この意味は,次のように取れます。

「一人一人が自分の考えでよろしい」

我欲をただ突き通すより,真実と思われる幻のまっただ中でもだえ苦しむよりも
「面々(おのおの)の計(はかり)りごとなり」
「一人一人が自分の考えでよろしい」

親鸞の言う「発心(ほっしん)」はこのような人々の我欲の果てに現われる根本的な信仰への疑問という地平から立ち昇ってきます。
ここに「他力」という本来の仏にすがる道が現われます。

栗駒紅葉 100-2s
ブナの林に朝日差す

念仏を唱えるだけで極楽浄土に行ける
善を重ねれば極楽浄土に行ける

親鸞の言う「他力」はそんな安易で楽観的な頼るということではありません。実は人間の真の平等とは何かという地平まで下りたって「他力」の条件とは何かを指し示したのでした。これは人間の救いを根本から考え直した鋭利な思想の到達点でした。良いことをする人間,悪いことをした人間。すべて「面々(おのおの)の計(はかり)りごとなり」しかしそうした人間のすべてが「発心」することで本願を遂げることができる。発心することに良い人,悪い人はない。人はみな平等。






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