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スコセッシ「沈黙」を観て

沈黙

マーティン・スコセッシの「沈黙-サイレンス-」を観た。
この映画は,遠藤周作の「沈黙」が原作になっています。スコセッシが「沈黙」を読んでから28年温め続けて,今回の作品となったそうです。
スコセッシと「沈黙」って,あまり自分の中では結びつきませんでした。なぜスコセッシが「沈黙」をと正直思いました。ただ,随分昔に「ミッション」(1987)という映画を観たことを思い出しました。設定が似ていたのです。「ミッション」も名作でした。イエズス会の神父ガブリエル(ジェレミー・アイアンズ)が南米奥地のイグアスの滝近くのグァラニー族というインディオの村に布教に行きます。最後に神父は信仰を貫き,イグアスの滝に落ちていきます。この設定が「沈黙」と同じでした。この中にデ・ニーロが奴隷商人として出てきます。映画でのデ・ニーロとスコセッシとの関係は古くからですから,日本好きのスコセッシがデニーロを介して「沈黙」を大切に扱うという思いがあったのかもしれません。

わたしにとっても遠藤周作の本は読書で重く自分の中に残っています。しかし,人が知っておかなければいけない世界なのだと自分に言い聞かせてきました。キリシタン弾圧を通して,人間はこれほど冷酷なことをするのかと見せつけられました。正直,人間にがっかりしました。多分,殉教の歴史自体が苦しみの歴史で,日本もその中の一つだったのです。劇中に出てくる拷問の数々はむごく,冷酷で,果てがないほど精緻で,堅牢で,死に至らしめるには格好のものでした。これ程に人間を極限まで痛めつけることができるのも人間だという事実にがっかりしました。

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「おらしょ」と隠れ切支丹の祈りは呼ばれました。わたしはおらしょの訥々と沈黙を壊さないように述べる祈りの言葉に驚いて,そのCDも買いました。彼らは隠れ切支丹として自分の祈りの声さえ世界に響かせることなく,ただ沈黙するだけの神に祈り続け,その信仰の証を得るために死んでいったと言ってもいいでしょう。

途中,捕まった5人の村人の中の一人,小松菜奈扮するモニカがロドリゴ神父に言います。
「死んだらパライソ(天国)に行けるのでしょう。パライソには苦しい仕事も,重い税金もないのでしょう」
そういうモニカのあどけなさというか,死を前にした明るさも映画ではのがしていませんでした。それほどに無垢に来世を待ち望んでいたことも確かだったのでしょう。忘れられないシーンです。

かみなり 005s

小説の中では切支丹の一斉摘発や集団の処刑を「崩れ」と言っていました。
そして踏み絵をして信仰を捨てることを「転び」と言っていました。ここまでに至らしめる拷問は見ていられないほどです。わたしが読んでいて思い出す隠れ切支丹への究極の拷問は,人間の身体をぎりぎりまで折り曲げて小さな木製の立方体の中に入れるというものです。

カシオペア正月 005-2s

ところで「沈黙」の映画としての完成度は実に高かったです。
最初に言った「ミッション」は監督  ローランド・ジョフィ,製作は「キリング フィールド」と同じフェルナンド・ギア,デヴィッド・パットナムのペア,ロバート・ボルトの脚本という豪華さでした。それと対をなす作品に仕上がっています。

昨年の2016年は遠藤周作没後20年,「沈黙」刊行50年に当たる年だったそうです。遠藤周作は宮城の隠れキリシタンの里にもやってきて取材しています。昭和40年辺りのことと憶えています。この取材から支倉常長がサンファンバウティスタ号でローマに表敬訪問したことを題材にした「侍」を書きました。

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遠藤周作は人間の過酷さに目をつむることはありませんでした。人間が何をしてきたかをはっきりと見届けようとしました。
彼のまなざしはやがてマルキ・ド・サド研究に向けられていきます。このノートも講談社文藝文庫に入っています。キリスト教の信仰と人間というテーマの最奥まで辿り着こうとしたのです。遠藤周作が死んだ後,棺には彼自身の遺志によって「沈黙」と遺作「深い河」の二冊が入れられたそうです。

映画の中で神父フェレイラとその弟子ロドリゴは棄教しました。つまり「転んだ」のです。
しかし生き続けられることはできました。神は沈黙しているが,転んでも生きていること自体が大切なのだということです。そして遠藤周作の結論は,遺作「深い河」の中にはっきりと示されています。死んだ妻の生まれ変わりを見付けるためにインドへと再会の旅に出ます。
つまり苦しみ死んだ者もまた生き返り,愛する者と再会できるということなのです。


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