桜の系譜13-坂上田村麻呂覚書き-

栗駒山 033-2gs
桜に光差す  栗駒山にて  前方の尾根の真ん中に一本の桜が咲いています

今年の桜は安永風土記(1770)に記されている桜を訪れてみようと考えていました。ちょっと違った桜の楽しみ方をしたいと思ったのでした。全部回ったりはできませんでしたが,後は来年の楽しみとして残しておこうと思います。
安永風土記はまだ未完成ですが,書出という形で村々から集められた記録は残されています。この村々から挙がってきた記録を見て桜を探します。今から250年前の記録です。その中に「名木」の項があって書くことになっています。根回りが一丈(3m)という目安で記録させていました。現代の巨木と同じ基準です。杉やけやきなどが多いのですが,たまに桜があるんです。実際「桜」は数えるほどしかありませんでした。宮城北部でも10例という少なさでした。上の表の中で現存しているものは「現存」と書き,今でも存在しているのかを確かめていくのです。こうした花見もいいかなと思っています。写真に撮っている桜は,桜の題名の所に「写真NO」を書いています。入谷の桜も「種蒔桜」として現存しています。

櫻の名前場所現在の場所備考
輝井櫻 三迫有壁村  栗原市金成町有壁,不明廻り三丈九尺
三迫有壁村栗原市金成町有壁,不明芳慮社内
山王の櫻(山王社内)写真4栗原郡佐沼郷北方村登米市迫町北方,現存廻り二丈一尺,現存
大同櫻栗原郡三迫鳥澤村栗原市栗駒鳥矢崎,枯れた花ごと落ちる櫻
南殿の櫻(善光寺内)写真2栗原郡高清水村栗原市高清水,現存
南殿の櫻の近くに(善光寺内)写真1栗原郡高清水村栗原市高清水,現存
ご神木の櫻(権現社内)登米郡櫻場村登米市中田町,枯れたすでに枯れていた
種蒔櫻(櫻澤屋敷内)本吉郡南方入谷村本吉郡南三陸町入谷,現存

この他に,石巻市河南町北浦の「南殿の櫻」(写真3),本吉郡折立村(志津川町)若宮社内の「南殿の櫻」があり,10本となります。

振替月曜 036-2s
登米市長谷寺 遮那桜

いろいろな桜を見て行くと,坂上田村麻呂と関わっている桜があることに気付きます。例えば上の写真の桜は登米市の長谷寺の「遮那桜」ですが,この長谷寺そのものが坂上田村麻呂創建の寺と言われています。そして「遮那桜」が義経の東下りと関係しています。同じ登米市の北方にある「山王の桜」は坂上田村麻呂と関係があります。坂上田村麻呂と桜,そして坂上田村麻呂と寺や神社。どうも深い関係があるようです。確かに田村麻呂伝説や田村麻呂創建の寺や神社が宮城県北部や岩手県南部に集中しています。「これはどうしてなのでしょう」と思ったわけです。

如来桜
写真2 善光寺の如来桜(風土記にある桜です)

坂上田村麻呂という名は歴史の教科書にも出て来ましたが,古く桓武天皇時代の人です。東北地方が「蝦夷」と呼ばれ,辺境にある地方を「熊襲(くまそ)」と言ったりするのと同じように,下に見る考え方からそう呼ばれていたのでしょう。ところが東北から金が出たりして資源豊かな地方として目をつけられ,開発の手が伸びてきました。その開発をやり遂げたのが坂上田村麻呂だったのです。征夷大将軍と肩書きが付いています。この坂上田村麻呂が東北を征夷する流れで地元派の「アテルイ」が出てきたのでした。アテルイは東北の地を守るというシンボルにもなっています。それを坂上田村麻呂という中央の権力が踏みにじったという構図が出来上がります。
では,そんな中央の代表である,東北にとって敵である坂上田村麻呂がなぜ英雄で,東北の奥地の一地方の桜にまでその功績が讃えられるように残っているのでしょうか。わたしは正直不思議に思い,坂上田村麻呂に関係する本を読んでみることにしました。確かに中央にとっては困難であった東北(蝦夷)を平定した坂上田村麻呂の功績は大変大きいものがあります。中央にとって地方平定は国家大事業の一つでした。

南殿のさくら
写真3 石巻市河南町南殿のさくら(風土記にある桜です)

結論から言えば坂上田村麻呂英雄伝説は義経の東下りと同じように,後の時代になって神楽や浄瑠璃などの民俗芸能関係で広く人々に語りつがれるような流れを取ったのではないか。田村麻呂の戦いをなぞった奥浄瑠璃「田村三代記」などは読んでも本当におもしろいと思います。鬼退治伝説に乗って,人々の中に田村麻呂の映像がすり込まれていったとも言えます。例えば,坂上田村麻呂は蝦夷平定の際にたくさんの僧を連れてきたりしています。つまり従来のような武力での征夷だけではなく,仏教の力で啓蒙していくという作戦も大きかったと思われます。そうした征夷の作戦のしたたかさがあって坂上田村麻呂が最も難しいと言われていた蝦夷平定をやり遂げたと思います。

そんな言わば東北開発という最も難しかった大事業をいかにして坂上田村麻呂は成し遂げたのか。その作戦を覚書きとして並べたいと思います。
① 柵の確保化 多賀城からの延伸
  伊治城,玉造柵,雄勝城,桃生城という最前線にどんどん各地方から人を送り込みました。そして土地を与えて住まわせました。そしてこの人たちが一大事の時に自分たちを守るための支援をしました。例えば伊治(これはる)城,つまり転訛して「くりはら」と玉造柵との間に駅を設けることにしました。そこに9000人を諸国から集め,送り込みました。
②懐柔策のしたたかさ
 投降する蝦夷を手厚く扱いました。報償を与えたり,土地を与えたりして平和的な手段での解決に力を注ぎました。功績のあった蝦夷には進んで土地を与えたり,中流豪族にはカバネを与えたりしました。
③厳然とした抵抗勢力に対する態度
 征夷は十万の兵という数での戦いだけではない,抵抗勢力の力を弱体化していく方法を進めました。例えば延暦18年(799)12月吉弥呼部黒田とその妻吉弥呼部田刈女がアテルイの仲間と往き来しているということで,捕らえて土佐国へ流しました。往き来するだけで島流しです。そんな日々の厳正な判断と処置を推し進めました。
④胆沢城をつくり,行政単位(組織改編)を整えていきました。
4000人を連れて,たった一年もかからずに胆沢城を作り,その4000人に土地を与えて住まわせました。
⑤たくさんの僧侶を連れて行って仏教興隆に努めました。
 ただの予想ですが,極楽寺に巨大寺院を作り,そこを中心として胆沢城の確保を行わせたのではないかと思います。

これらの政策が浸透していき,ついに延暦21年(803)とうとうアテルイと母礼は投降したのではないかと思われます。
坂上田村麻呂はこの後すかさず4度目の陸奥を訪れ,またたく間に志和城を建設していきました。

最後になりましたが,坂上田村麻呂は,東北での災害復興支援,報奨制度,自然災害時の支援や税金の免除も同時に行っていきました。


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