現代の賢治の後継者

のの岳展望 063-2gs
箟岳山遠望  6/3 どこに電車が写っているでしょうか

石と賢治のミュージアムから夏恒例の今年のグスコープドリの大学校の案内が届きました。
その初日7月23日(日)に講演2つがあって,一つ目は澤口たまみ氏の「ナチュラリストとしての宮沢賢治-自然が教えてくれること-」と佐藤竜一氏の「宮沢賢治と震災-「雨ニモマケズ」の祈り-」があるようです。
澤口たまみさんは最近絵本「わたしのこねこ」(2016)で産経児童出版文化賞美術賞を受賞しました。昔からブログを見てきて,宮沢賢治のこともそうですが,また昆虫への想いにも共感させられます。

その絵本作家の澤口たまみ氏がブログでこう書いています。
小さな子どもに、この世のいのちのありようを伝えてゆく。
 それが、わたしの仕事だと思っています。
 そしてそのためには、奇をてらったオノマトぺも、わたしの視点を押しつけることになる形容詞も、不必要だと考えてきました。
 ただ、そのもののありようを、できるだけ同じ大きさで言葉にしてゆく。
 それは結果として、文章を地味にします。
 大きく評判になることもないかも知れない。
 けれど、生きものや自然を紹介するということは、そういうことなんだと肝に銘じてきたのです。
 過度の表現は、厳に慎むべきと。
なかなかいい言葉ですね。

タルコフスキーなんかの映画も物語を避けているようにも思われます。ストーリーに過度に引きづられる映像を嫌うのです。つまり目的のために浪費されていく映像を嫌っているとも受け取れます。映像や文字がそれ自体で独立していて,声に出して発音してみるとその音が静かに世界にこだまして響き,その佇まいで心が静まってくる。そんな映像や言葉が好みです。これは写真についても言えることです。誇張することは刺激を強くする方向へ進みます。
宮沢賢治が嫌っていた「慢」はまさにこの誇張や誇張を招く心のあり様(よう)を言っているのではないでしょうか。言葉による誇張や物語の誇張を抜いていくと,静かに個々の映像や言葉が立ち上がっていきます。従って澤口氏が言うように,文章は地味になります。押しつけるメッセージや意味をおしきせることもなくなります。音や文字の形や意味が本来の姿でたたずんでいることが分かります。すべての存在がフリーになるということです。フリーであるということは,こどもの甘えた言葉も,花も,葉も,ことばも平等に独立した存在が与えられこの世に存在していることが許されているということなのです。賢治はこのことを自然から受け取っていました。この世のありとあらゆるものが平等に並立しているのです。その考えは仏教に触れることでさらに倫理化されていったと思います。さらにフリーであることは階層化を嫌います。階層化からフリーだということは,権力からもフリーだという姿勢に繋がります。
このようなフリー思想は簡単に言うと,地球にあるすべての存在が並立して平等だという確信を得た人は自然の中にその美をみつけやすく,調和してある自然に憧れます。

澤口氏が賢治のそうした考え方の核心を模索しながら作品を生み出していることに東北人としての素朴さと力強さを感じます。


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