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坂上田村麻呂伝説を探る

土曜気仙沼線 072-2s
夕暮れに遠ざかる明かり(7/15) 気仙沼線

◎ 今日の写真はサムネイルで入れました。クリックすると拡大されます。

私が坂上田村麻呂に興味を持ったのは,ダイヤモンド栗駒を調べている時でした。ダイヤモンド富士としてよく知られているように,栗駒山山頂に太陽が懸かる日時を探しているときでした。
丁度,春のお彼岸の中日に栗駒山に太陽が沈む所が見られる場所があったのです。毛越寺の西南西に位置する「達谷の窟」です。
お彼岸の中日の入り日に栗駒山の頂上に太陽が沈むということは,何か偶然ではない計算した上で,この「達谷の窟」が建てられ,毘沙門天が祀られたのではないかと思ってしまいます。
お彼岸の中日に達谷の窟から見て,栗駒山に太陽が沈む様子は下のようになります。

達谷の岩屋
カシミールで再現

ちなみに「達谷の窟」自体がどこにあるのかというと,次の地図をご覧下さい。「達谷の窟」は,毛越寺の西南西にあります。

平泉と達谷の窟

しかし現地で確かめてみたのですが,達谷の窟からは栗駒山自体が尾根に阻まれて見えないのです。窟の上に登れば見えるのかもしれませんが・・・。

古来よりお彼岸の中日の太陽は特別な意味があったことは以前の記事で載せました。少し引用してみます。
『無量寿仏観経』には,精神を統一して浄土と阿弥陀仏や菩薩たちを観想する13の観法が説かれています。その最初の行が「日想観」と言われる集中して沈む太陽を見つめる行です。
みな日没を見よ。まさに想念を起し正坐し西向して、あきらかに日を観じて、心をして堅住ならしめて専想して移らざれば、日の没せんと欲して、状、鼓を懸けたるがごとくなるを見るべし。すでに日を見ること已らば、閉目・開目に、みな明了ならしめよ。これを日想とし、名づけて初めの観といふ。
聖徳太子が創建した四天王寺の辺りは大阪湾の方向に沈む夕日を眺める絶好の場所で,毎年春分の日と秋分の日に日想観の法要が執り行われます。沈む夕陽から阿弥陀如来が現われるという信仰は美しい作品も生み出してきました。また太陽や月に合わせて阿弥陀様が現われる山越阿弥陀来迎図です。
国宝もありますが,折口信夫が冷泉為恭筆の阿弥陀来迎図について書いていますから,見てみましょう。
「四天王寺西門は、昔から謂われている、極楽東門に向っているところで、彼岸の夕、西の方海遠く入る日を拝む人の群集したこと、凡そ七百年ほどの歴史を経て、今も尚若干の人々は、淡路の島は愚か、海の波すら見えぬ、煤ふる西の宮に向って、くるめき入る日を見送りに出る。此種の日想観なら、「弱法師よろぼうし」の上にも見えていた。舞台を何とも謂えぬ情趣に整えていると共に、梅の花咲き散る頃の優なる季節感が靡なびきかかっている。「山越しの阿弥陀像の画因」から」

現在の四天王寺で行われている日想観法要は2001年に復活したそうですから一旦なくなっていた行事が再興されたんですね。お彼岸の中日に執り行われるこの法要は何も寺だけでなく,庶民でも「日迎え・日送り」の行事として一般に行われていたことでした。
この場所で坂上田村麻呂が悪路王,赤頭,(高丸は吾妻鏡に記載なし)を退治して毘沙門天を祀ったということです。そしてこの話は源頼朝が達谷の窟を訪れた文治5年(1189)9月28日の記事が最初です。

満月土曜 158-2gs
夕暮れに走る

私自身は達谷の窟という場所がもともと日想観などの太陽信仰上,重要な位置に置かれたこと。その場所と坂上田村麻呂の平定した事実とが結びついてはいないか。頼朝にとっても立ち寄らなくては行けない場所だからこそ文治5年(1189)9月28日にこの地に来たのでしょう。それほど重要な場所であった。頼朝にすれば征夷大将軍になった者はみな坂上田村麻呂由来の寺,この東北では達谷の窟を表敬訪問するという習わしに従ったのかもしれません。それ程に坂上田村麻呂の存在が大きかったのでしょう。

昨日の登米市歴史博物館で行われた 歴史講演会「仙台藩北部の田村麻呂伝説―地誌と語り物にみる―」に参加しました。テーマは「江戸時代の仙台藩の地誌と奥浄瑠璃語りから田村麻呂伝説の地域の展開}をお話するというものでした。
このお話からすると東北に田村麻呂伝説を語る神社がなぜこれほど多いのかが分かります。表にしてみました。

「神社名鑑」に出て来た東夷,田村麻呂を語る神社数
                          県名                                  神社数                                 蝦夷征伐を語る神社数                                            田村麻呂伝説を語る神社数
 青森県  791513
岩手県661910
宮城県1224316
秋田県1091712
山形県145301(源義家18)
福島県993610
これほどに田村麻呂が神社の縁起の中に残っているのはどうしてなのでしょう。
逆に,これほどの偏りにも似た統一性に意味がありそうだと考えてしまいます。廃仏毀釈の明治維新を乗り越えるときに大きな淘汰が働いたとみていいでしょう。一村に山伏の寺が二つ,各宗派の寺もあったといいます。現代に生き残るために寺社が縁起の洗い出しや編纂を重ねた結果ある程度の統一性が生まれ,田村麻呂伝説がこのように強力に生き残る要因になったとは言えないでしょうか。それにしても田村麻呂伝説が東北の土台に奥深くに根付いていた事実は確かなことでしょう。


月曜十六夜の月 117-2s
十六夜の月

この田村麻呂伝説をひもとくことは東北の土台を明らかにする上で大切なキーワードになることは確かです。
例えば田村麻呂伝説の出所と異同を確かめていくと,その共通性は北上川沿いにある天台宗,白山神社,山伏,廻国聖,奈良長谷寺と繋がっていきます。各寺院の宗派は時代につれて改宗している寺も多いので,基本は天台宗だと考えています。それは今でも「鬼」というキーワードを大切にした天台宗のの岳こん峰寺に残る鬼やらいや観音信仰,七観音信仰と結びついて幾重にも絡まりながら現代に至っているのでしょう。その絡まりをゆっくりとほどいていくことが大切なのだと思います。



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