宮沢賢治「チュウリップの幻術」その5-チュウリップいろいろ-

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海辺を往く  8/2 石巻線

今日は賢治の作品に出て来たチュウリップの話です。
チュウリップという花は今でこそ最も植えられている花でポピュラーですが,賢治が生きていた明治,大正時代は珍しい花だったでしょう。
まず,賢治の作品に出て来たチュウリップの花を時系列に並べてみましょう。

①492 かげらうは うっこんかうに沸きたてど そのみどりなる柄は ふるはざる
 〔異稿〕チュウリップ かがやく酒は湧きたてど その緑なる柄は ふるはざり   大正六年四月(1917)賢治21歳 高農3年
②「チュウリップの幻術」         大正十二年頃 (1922)賢治26歳 教師になって2年目
③「貝の火」                 大正十二年頃 (1922)賢治26歳 教室で読んで聞かせた
④「花壇工作」               大正十三年頃 (1924)賢治28歳 4月「春と修羅」12月「注文の多い料理店」刊行


①うっこんかうとはチュウリップのことです。咲いているチュウリップの周囲で日の光を浴びてもうもうと陽炎が立っていたのでしょう。大正六年四月(1917)賢治21歳 高農3年の時にその景色に出会ったと思われます。賢治は,チュウリップの花の高さまで屈んで寝そべるようにして見入ったのかもしれません。鮮烈なイメージとして残っていたのでしょう。4月はまだ底冷えのする季節です。もうもうとした朝霧が立つ季節です。朝霧が晴れ,雲間から太陽が現れてかっと景色が燃え上がる景色が眼に浮かぶようです。実際「チュウリップの幻術」では午後の時間帯になっていますが,そのような景色が描かれます。

さて,気になるのはこのチュウリップが並んだ景色を,賢治が見たのは一体どこなのかと想像したくなります。
どうもこの492番のチュウリップの歌の前後の番号の歌を見て行くと,場所が「箱ヶ森」「七つ森」なのです。すると小岩井農場なのかと想像してみます。トウヒの木が並んでいる農園の一角で試験栽培しているチュウリップが眼に浮かんできます。
この景色がもう「研師と園丁」で第2章に独立させて,「チューリップ酒」として「チュウリップの幻術」に成長させていきます。この歌のイメージを大切に表現するために鉛筆で歌を直していきます。それを見てみましょう。

「チュウリップ かがやく酒は湧きたてど その緑なる柄は ふるはざり 」
「チュウリップ」を鉛筆で消して,「日の酒は」にします。さらに「日の酒は」を消して「かげらうは」に直しています。
「かがやく酒は」を鉛筆で消して,「うっこんかうに」直します。
「湧きたてど」を「湧きたれど」に直し,更にもう一回「湧きたてど」という最初の形に戻します。
「その緑なる」の「その」を鉛筆で消して,「花の緑なる」にして,また「その緑なる」という最初の形に戻しています。
そして「かげらうは うっこんかうに沸きたてど そのみどりなる柄は ふるはざる」となるわけです。かがやく酒という陽炎の形容を想像部分をそぎ落として見たままに「かげらう」にと直すことで,写実性をの高めて,「チュウリップ」も「うっこんこう」と言い換えてイメージも音も「ちゅーりっぷ」と伸びずに「うっこんかう」と詰まらせて立ち止まらせます。うまい推敲です。しかし,「そのみどりなる柄は ふるはざる」は「チュウリップの幻術」の中でもとても強調されています。本文を引用しましょう。
「あの小さな白いのですか。」
「そうです、あれは此処では一番大切なのです。まあしばらくじっと見詰めてごらんなさい。どうです、形のいいことは一等でしょう。」
 洋傘直しはしばらくその花に見入ります。そしてだまってしまいます。
ずいぶん寂かな緑みどりの柄でしょう。風にゆらいで微かに光っているようです。いかにもその柄が風に靱(しな)っているようです。けれども実は少しも動いておりません。それにあの白い小さな花は何か不思議な合図を空に送っているようにあなたには思われませんか。」太字はnitta245
どうしてこんなに緑の柄(え)にこだわっているのでしょう。そしてどうしてみどりの柄だけは動かないようにしたいのでしょう。実際動くと思うのですが・・・。賢治の「けれども」には特別な意味のもたせ方があるようです。「動いているように見える。けれども動いていない」という否定形で示される何かがあるのです。「インドラの網」という作品にも「けれども」表現がよく出てきます。 

・ こけももがいつかなくなって地面は乾いた灰いろの苔で覆われところどころには赤い苔の花もさいていました。けれどもそれはいよいよつめたい高原の悲痛を増すばかりでした。

・ けれどもこの時は早くも高原の夜は明けるらしかったのです。

・一瞬百由旬を飛んでいるぞ。けれども見ろ、少しも動いていない。       

・(やっぱりツェラの高原だ。ほんの一時のまぎれ込みなどは結局あてにならないのだ。)斯う私は自分で自分に誨えるようにしました。けれどもどうもおかしいことはあの天盤のつめたいまるめろに似たかおりがまだその辺に漂っているのでした。そして私は又ちらっとさっきのあやしい天の世界の空間を夢のように感じたのです。

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どうも賢治の作品中「けれども」が出てくると,見えているものと現実の区別がつかなくなっているようなのです。これを賢治の「けれども活用」と言います。歌や「チュウリップの幻術」に出てきた「いかにもその柄が風に靱(しな)っているようです。けれども実は少しも動いておりません。」はまさに陽炎の中での認識の「ゆらぎ」を表しているようです。
よく賢治は場面を描写してからそこに白亜紀の恐竜が平然と現れたりする記述を行います。彼には今の現実の現象と同時にその場所の地層の奥まで透視してしまうのです。ですから現在と白亜紀が同一次元で二重写しに見えるわけです。賢治の「けれども活用」には時間の堆積が省略される効果があります。この辺りは賢治の認識論として相対性理論や4次元とからめてお話しすれば面白いところですが今は省略します。

さて②「チュウリップの幻術」です。さっそく,小さくて白いチュウリップのところを引用しましょう。
「そして、そら、光が湧いているでしょう。おお、湧きあがる、湧きあがる、花の盃をあふれてひろがり湧きあがりひろがりひろがりもう青ぞらも光の波で一ぱいです。山脈の雪も光の中で機嫌よく空へ笑っています。湧きます、湧きます。ふう、チュウリップの光の酒。どうです。チュウリップの光の酒。ほめて下さい。」
「ええ、このエステルは上等です。とても合成できません。」
「おや、エステルだって、合成だって、そいつは素敵だ。あなたはどこかの化学大学校を出た方ですね。」
「いいえ、私はエステル工学校の卒業生です。」
「エステル工学校。ハッハッハ。素敵だ。さあどうです。一杯やりましょう。チュウリップの光の酒。さあ飲みませんか。」
「いや、やりましょう。よう、あなたの健康を祝します。」
「よう、ご健康を祝します。いい酒です。貧乏な僕のお酒はまた一層いっそうに光っておまけに軽いのだ。」
「けれどもぜんたいこれでいいんですか。あんまり光が過ぎはしませんか。」
「いいえ心配ありません。酒があんなに湧きあがり波を立てたり渦になったり花弁をあふれて流れてもあのチュウリップの緑みどりの花柄は一寸ちょっともゆらぎはしないのです。さあも一つおやりなさい。」
「ええ、ありがとう。あなたもどうです。奇麗な空じゃありませんか。」
「やりますとも、おっと沢山沢山。けれどもいくらこぼれたところでそこら一面いちめんチュウリップ酒の波だもの。」
「一面どころじゃありません。そらのはずれから地面じめんの底まですっかり光の領分りょうぶんです。たしかに今は光のお酒が地面の腹の底までしみました。」
「ええ、ええ、そうです。おや、ごらんなさい、向こうの畑。ね。光の酒に漬かっては花椰菜でもアスパラガスでも実に立派りっぱなものではありませんか。」
まるでストラビンスキーの「春の祭典」を思わせる律動感にあふれた悦びを表現しています。この溢れだし,爆発するような,その中に自分が溺れていくような対象との一体感が賢治の独壇場です。

③「貝の火」にもチュウリップが出てきます。
「貝の火が今日ぐらい美しいことはまだありませんでした。赤,緑,青の様々の火,いなづま,光の血,水色のほのお,ひなげしや黄色いチュウリップ,薔薇やほたるかづらなどが一面風にゆれたりしているように見えたのです。」注目したいのは「チュウリップの幻術」に出てきた「小さくて白いチュウリップ」は「貝の火」の宝玉に映し出された黄色のチュウリップの隣りにあるのです。その部分です。
「そうです。そうです。そして一寸とあいつをごらんなさい。ね。そら、その黄いろの隣りのあいつです。」
「あの小さな白いのですか。」

この「チュウリップの幻術」の中に「貝の火」との密接な連関がありそうな記述ではありませんか。

そして④の「花壇工作」で賢治は実際にチューリップを植えることになります。
下の畑には後に作物の畑の周りをチュウリップが縁取り,彩るようです。


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