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二人の菜食主義者-賢治と悟堂- その2

台風一過9日 078-2gs
雨の白山権現境内にて

賢治は大正7年(1918)5月19日付,保阪嘉内に宛てた手紙に書きました。
私は春から生物のからだを食うのをやめました。
賢治は春に高等農林を卒業し,関教授のもと稗貫郡土性調査に出かけ,徴兵検査で第二乙種になったのでした。高等農林に残り,実験指導補助嘱託という身分でした。
もともと卒業前から菜食に転じていたのでしょう。土性調査で泊まった旅館で出される刺身や茶碗蒸しを「社会」通念上いやいや食べざるを得なくなって食べたことも書いてあります。肉や魚を食う同僚は,「まずい」だの,「違うのを食べさせろ」「鶏を出せ」だのと文句や不平を言ってばかりいる。最後には誰かが宿屋に偉そうに「こんなもてなしでは金を払わんぞ」と息巻いたりするわけですから賢治もいやになったりしています。そんな態度に嫌気が差しています。
賢治にとってはどんな生き物でも命は命。大きい小さいに変わりなく,平等で食う食われるという関係ではあり得ない。人だからと言って無闇に生き物の命を文句を言いながら食べる権利はどこにあるかと怒ってもいるわけです。自ずとこうした心持ちで生活していますから,主義として菜食主義になるべくしてなったということなのでしょう。おまけに手紙では嘉内と一緒に見た豚の屠殺場の現場がまざまざと眼に浮かんできたのでした。悲しくて仕方がない。でも泣くなと自分に言い聞かせます。
そして全てのかなしい生き物の成仏のために,自分は山々を,そして自然の一切を書くのだと言います。

この考えは「ビヂタリアン大祭」にそのままに現れています。
総ての生物はみな無量の劫の昔から流転に流転を重ねて来た。流転の階段は大きく分けて九つある。われらはまのあたりその二つを見る。一つのたましいはある時は人を感ずる。ある時は畜生、則ち我等が呼ぶ所の動物中に生れる。ある時は天上にも生れる。その間にはいろいろの他のたましいと近づいたり離れたりする。則ち友人や恋人や兄弟や親子やである。それらが互にはなれ又生を隔ててはもうお互に見知らない。無限の間には無限の組合せが可能である。だから我々のまわりの生物はみな永い間の親子兄弟である。
賢治は自己対話のようにしてこの作品を書いています。結局,宗教でも,神にとっての善でも,マルサスの人口論でもなく解決せず,果てしもない生命の歴史の中では様々に現在現れ出ている現象は事実で,真理である。あるのは,魚や豚や人間という現象の違いだけで,生き物としての関係性は絶体だと言います。今ここにある命は存在している自体で絶体であって,例えばクロアゲハの成虫だけでなく,毛虫としての幼虫であっても絶体的な存在としてあると賢治は考えているようです。これらの山川草木禽獣鳥魚すべてが苦界から抜け出ようとしている。この絶体平等性に基盤を置いて,「かなしき生き物」すべての成仏を祈ることが正しき道なのです。

台風一過9日 100-2gs
夏の花

保阪嘉内は高農に入学した折に,トルストイの思想に感銘を受けて農家の生活を営みたいと自己紹介し,賢治はそのように考えて入学するとは珍しくも,素晴らしいことだと言いました。
実はこんな賢治のベジタリアンの考えが「トルストイ-武者小路実篤-「新しい村」運動」と時代とシンクロして,「トルストイ-保阪嘉内-賢治」というトレンドとなることと一致しています。またこの流れが「新仏教運動-トルストイ-賢治」とポリフォニーのように協奏し合って菜食主義がライフスタイルになっていたことも確かでしょう。古代ギリシャのヘシオドス,ピタゴラス,プラトン,レオナルド・ダ・ヴィンチ,ルソー,シェリー,バイロン,フランクリン,ソロー,ワグナー,トルストイ,バーナード・ショー。すべて菜食主義に傾倒していたと言います。何もこうした西洋思想の影響だけでなく,仏教国日本では古くから菜食主義の伝統がありました。そこにのっかっているだけじゃんと思うかもしれませんね。


この話はさらにつづきます


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